世界は称賛に値する

日記を書きます

落下する十九日、土曜日

繋がりたいタグ

つながりたい系ハッシュタグ(××な人とつながりたい)に対する侮りがひどい、と再認識した。ださいとかせこいとか思って避けているところがある。つながりたい系タグで得られるであろう(と想定されているであろう)つながりの「浅はかさ」を軽侮している、と言えるとは思うのだけど、この「浅はかさ」に対して、それはほんとうに浅はかなのだろうか、とは問いたくなるし、浅はかな場合も浅はかじゃない場合もあるんじゃないですかね~、とも思う。あとは当然、振る舞いや運にもよるだろう、とも思う。最初は浅はかなつながりであったとしても、どう振る舞っていくかで、浅はかじゃないものに出来ることだってあるし、運にも左右されるに違いない。というのとは別に、そこにあるであろう「必死さ」に対しての軽侮も間違いなくあって、これってつまり「必死な姿を嘲笑う」姿勢であり、そういうのはいらんだろ、と反省した。

努力化

必死さに対する眼差しが雑だ。甘えがあるからだ、と最近また再認識し始めた。ぜんぜん必死さの重要性が理解できておらず、おかげで努力をしようという気持ちも発奮させられず、結局は甘えてしまい、そうして眼差しが雑になり、必死さを軽んじることとなる。というような無限ループを予感している。日記に描いておくとちょっとはマシだ(発言が無意識に作用してくれる可能性、ある程度は信じている)

前向きな落ち

解釈を進めていくことで、最終的に、文章が前向きな落ちで終わることがあるのだけど、無理矢理に自分を納得させている自己正当化バージョンと、冷静でフラットな気持ちで見てみたらむしろ素敵な地平だったバージョンがある。基本的には後者を推進しているつもりだが、その理路の違いを丁寧に提示できているかは、不安だ。書いている側の主観でいえば、前向きな落ちで終わらせた(自分で持っていった)か、前向きな落ちで終わってくれた(辿り着いた)か、という違いはあると思うのだけど……。その流れを描けているんだろうかと不安になる。終わらせたと終わってくれた、なんていう、わかりやすい言い回しの違いを描いてみせたものの、自分でもどちらかわからないことも多々あるし。描けてないこともありそう。

サしゅう

Twitterまわりが少し騒がしくて、終わりの可能性も話されているようだ。根拠と言えるほどのことはまだないように見えているのだけど、普通に見逃しているだけかもしれない。消えたら代替品は出てきてくれるだろう。Mastodonの話もまた見かけるようになってきた。Mastodonが普遍的なものになった文化や社会は少し面白そうなので、ちょっと楽しみにはしている。今ある縁が急に途切れるのは困るが……。しかし、好きだったのに消えていったはてなダイアリーやはてなブログがあれだけあったのに、今さら「縁が途切れる」ことに嘆くことができるんだろうか、とは思う。あと、Twitterの終焉の匂いに釣られてブログを再開したみたいなタイミングになって、あら、とは思っている。