世界は称賛に値する

日記を書きます

流転する二十一日、月曜日

素晴らしいものなので

「これ」は素晴らしいものなのだからそれに対して「嫌い」とか「つらい」とか思っちゃダメなんだ、という判断をときたま見かける。思っちゃダメだ、という認識がそもそも嫌いなので、なんにせよ避けたい思考経路ではあるのだけど、対象が素晴らしいものだから(素晴らしいものに素晴らしくない気持ちを向ける、という状態にしてしまうなんて)絶対にダメである、という思考経路は、輪をかけて嫌いだ。幸せにならなそうなので苦手である(幸せが好きだ)。なんでも思ってよいし、なにに対してどう思ってもよい。調整とか制御とかがしたいならその次のレイヤーですればよい。その次のレイヤーでコントロールせんとする姿勢が、幸せに近づくやりかたの一つだろう、って思っている。

執筆たのしい

文章を書く行為がたいへん楽しい。数日前にも同じこと書いたでしょ、とは思いつつも、楽しい~っていう認識の登場頻度が上がっているので改めて書いた。何回書いてもよいとする。遠慮はいらんとこだろう。せっかくノってるのにわざわざブレーキかけることはない。なんでもいいから好き勝手にお題を決めて言葉を書きたい、と言える愉しさが今はある。お題の切れ味から出てくる面白さも無論知っているので、つまんないお題じゃつまんないんじゃないの、という不安も抱くところではあるのだけど、とはいえ面白さなんて二の次、と思えるくらいの快楽に溺れている。楽しいね。

ブログたのしい

ブログ書くとほんとうにブログ読むのが楽しくなる。なんなん……(この、じぶんでも実践してみたら、そこにある凄味が認識可能になって、愉悦が増幅される、っていう状態、あんまり好きじゃないところもあるのだった。実践してないことがどれだけあって、だからつまり、どんだけ見逃してるんだ、っていう無念が湧いてくるので)

いいねされた数だけ

つながりたい系タグを意識せぬまま軽んじている、と再認識した話を前に書いたけれど、「いいねされた数だけ(リツイートされた数だけ)××する」に対しても、同様の侮りがある。でも、よいところもある。活かしかたもある。雑に軽んじて見所を見逃している場合じゃないぞとは思い直した。なんか毛嫌いしてしまうことはあるけど、なんとなく毛嫌い程度の雑な判断を使ってやりくりしていけるほど世界は甘くないんじゃないの、と最近は思うようにはなったのだった(世界に対する甘えだろう、と書いていて思った)(固定観念ってけっこうな割合、甘えだよなあ)(甘えの良し悪しの話もあるけれど)