世界は称賛に値する

日記を書きます

2024年01月02日(火)行を増やした

行を増やしていく

1行日記、2行日記、3行日記。どの概念も見たことがある。このままさらに一行ずつ増やしていくことも可能だろう(当たり前だが)。ただ、1行~3行くらいの日記と、10行・20行ほどの文章から成る日記は、別物じゃんとも感じる。在りよう、使われかた、位置づけが変わるというか。認識の手触りがおおきく変わる。ぱっと見で把握できる認識と、全体の印象を捉えようとする認識では、なんというか、質感が変わるんだろう。見通せるモードと見通せないモードの違いといってもよい。見通せないモードが脳内で駆動し始めると、ぼんやりさせたり、枠組みや構造に着目したりして、「なんとか処理してみせる」型の精神に切り替わるのだとも思っている。

一行じゃ不足(誤解を招く)

時間がないときは一行だけでも書いておこう、とか思うこともあるのだけど、一行だと物足りないことが多い。とはいえ、ここでいう「物足りない」ってなんなんだろうな、とも思う。説明が足りないため意味がつかんでもらえない、誤解されそう、といった怖れが近いところにありそうではある。

意味がつかめない文章を残したくないのはなぜなんだろう、どうして誤解をまねかないようにしたいんだろう、といった疑問もあわせて思い浮かんだ。答えは不明だ。突き詰めれば、「誤解なく意味をつかんでほしい」という欲求の話になっていく気もする。そしてそれは、「価値を認めてほしい」「ぼく自身を理解してほしい」「生を肯定してほしい」といったところにある欲求にも繋がっていく気がした。話してみせて、わかってもらえることの向こう側に、価値・自分自身・生に関する満足、が、存在する感覚はなくはない。

逆にいえば、不足感ある一行の文を、つまり、誤解を招きかねない怖れのある文章を、わざわざ誰かに見せる、という行為の裏側には、価値や、ぼく自身や、生を、毀損してみせるような側面がある(あってしまう)んじゃないかな~。わかってもらえないであろうと感じている言葉をわざわざ発し、実際にわかってもらえなかったときに、変な傷つきかたをしそうというか、なにかが毀損させられている感じが出かねない、っていうのは、なんか想像できる。

一行でよいとき

というのと、切れ味のよいひと言を言ってみせる気持ちよさ、みたいなものの対比を考えてもいた。一行日記だからこその、爽快で、鋭利な、快楽というのも、ときにはあると感じている。見事な切り口を眺めて惚れ惚れする瞬間が稀にある。短歌などの詩などのまわりでも見られる事象だ。まあ相手と自分が同じ文脈に乗っていると感じられたときにだけ顕現させられる(と錯覚できる)奇跡の話なのかもしれないが、とは思った。奇跡とまでは言わなくても、趣味嗜好が合っているからこそ背後や周辺込み込みで伝わる言葉というのは、あるんだろう。そういったシンクロの場なら可能なのかなと考えていた。同調や同期、共鳴を狙うことで一行日記も書ける。同情や共感でもよい(同調・同期・同情・共鳴・共感の区別は当たり前だが不明である)。