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日記を書きます

2024年08月19日(月)過去形とか現在形とかよりは、リズムを優先

文末を揃えない

文章を書くときに、「ある」「する」「した」「だった」「である」「だ」「している」「だろう」「ようだ」「らしい」「ない」といった、さまざまな文末を、織りまぜて書いたほうが、文章のリズムがよくなるよ、読みやすくなるよ、よい文章になるよ、だからそうしたほうがよい、といった文章指南を、ときどき見かける。読解中、実際にそう感じられることも多い。同じ文末が続くと、たしかに、単調な響きに聞こえてはくる。まあ、一辺倒な末尾をあえて活かした、異質で奇抜なリズム感の名文家も、たまにいるが。

とはいえ、この指南はなんなんだ、と思ったりもする。存在、行動、時制、推論、比喩、伝聞、否定、といった「意味」的な彩りを脇に置いて、「音」的な「リズム」のために、さまざまな言葉を置かせようとしてくる文章作法、なんとなく意味わからんくない?という疑問も生じる。

ただ、「意味」を優先しようとする振る舞いやまなざしのほうが、実は異端なのかもしれない。特に「日常の言葉づかい」の範疇でいうならなおさらそうなのかもしれない。普段づかいなら、「リズム」のほうが――「ノリ」のほうが、よっぽど重要なのだ、って気も、たしかにしなくはない。メラビアンの法則に照らしていえば、会話のうち、言語情報なんて、「伝達されるうちの7%に過ぎない」のだ、って言われたりもするわけだし。「リズム」は、(伝達されるもののうちの)聴覚情報38%のほう含まれるんじゃないだろうか、と推察もできる。

「リズム」とは別の話になるけど、いろいろな文末を乱立させるのがなんだかよさげ、といった文章作法にしたがうことで、結果として、「意味」もまた、彩り豊かな形で配置されることとなり、より楽しめる姿に変わる(飽きさせず読ませられる起伏が形成される)、っていうような副次的な効果もまた、あるんじゃないか、って気はした。もしかしたらそれが主目的なのかもしれないが。