世界は称賛に値する

日記を書きます

2025年01月10日(金)当たり前で判断するのはちょっと

当たり前じゃんの鶴の一声

人によって「当たり前」「常識」「イメージ」は違う。万人に通用する、正当な「当たり前」なんてない。経験や経歴による差もあれば、生まれつきの感覚や気分でも、大きく変わる。ある人物が、もし、数百年前に生まれ、別に国で過ごしてきていたなら、まったく異なる「当たり前」を持つことにだってなっていただろう。

だから、たとえば、ひとりの権力者が、「これがフツーだろ」っていうだけの基準で、物事を決めたとしても、それが妥当なものだとは限らない。というか、妥当じゃない可能性のほうが高い。怖いくらいズレた見解である可能性を捨てきれない。見当違いは防げない。そしてそれは、端的に言って、よくない状態だろう。せめて相談・議論・検討くらいしてくれって思う。複数人が(忖度なしに)見解を持ち寄れるなら、相対的に、多少はマシな判断ができるんじゃないか、とは期待している。

みたいな不安と前提をいだいているため、権力者の放つ「あたりまえじゃん」の鶴の一声で物事が決まる事態には、まったく慣れない(慣れたくない)のだが、しかし、昨今、遭遇する機会がどうしても少なくなくて、そのたびに、うーん、とはなっている。内心、頭をかかえている。

いさめたほうがよい、いさめるのが仕事だ、と言われれば、ぐうの音も出ないところはある。しかし単純に、「じゃあ、忖度せず、いさめていきましょう」とも言いがたい。万が一じゃ済まなそうな致命的な反動や被害だって想定はされる。それは困る。いろいろと調整しておけるならそうしたい。ダメージを喰らわずに済むルートがあるなら模索だってしたい。いろいろ厳しい状態だなとは思う。

こんなことを学んだ

日々いろいろと学べていることがあるはずなのだけど、うまく残せていない。結局のところ、忘れられがちだ。自分のとった行動の手ごたえやリアクションから反省する形で学んだこともあれば、会話なり読書なり動画なりからしっかりと教えを受けて学んだことだってあるにもかかわらず、日記を書く段になると、忘れている。というか、あえて悪し様に挙げるなら、こういう「御託」に時間を費やしてしまっているせいで、そこまで辿り着けなくなっている。とも、まあ、言えるところはたぶんある。しかし前置き的な御託って楽しいんだよな……。ともかく、記録に、もうちょっとは残したい。