世界は称賛に値する

日記を書きます

2025年01月11日(土)軽妙なほうが、ときに、頭に入りこみやすい

堅苦しさばかりでもない

口頭で喋っているときよりは、文字を書いているときのほうが、「語り」的な意味での破綻は、たぶん、少ない。やっぱり話し言葉メインだと破綻しやすい、とまでは言わないが、ややアラが目立つ。テンポを重視しすぎてしまうのか、どこかヘンにあせっているのか、印象がただ伝わればよいとか思っちゃっているのか、話し言葉の持つ性質のせいなのか、理由はいろいろ混じっているのだと思うけど、とにかくちょっと、雑になる。文字での記述のほうが、破綻とか飛躍とか整合性を気にしながら書ける感じは、まあある。無意識的な省略による説明不足とか、多少は、防げていると思う。

そういったスカスカが生まれるリスクを避けたくて、日記の文章では、砕けた話し言葉をなるたけ避けて、堅実で厳密っぽい、書き言葉じみたものを、あえて選んでしまっているところがあると思う。堅苦しい言い回しを採用することで、論理的なアラが減り、混乱させないようにしながら、過不足のない話がしていけるでしょう、みたいな世界観(文章観)になっている。きっとそうなってくれるに違いないという楽観もいだいてしまっている。結果として、軽口みたいな軽妙さは鳴りを潜めている。ふだんはしないような言い回しも、たくさん選んでいる。

破綻も飛躍も、隙もなく、キレイに筋が通っているので、これこそがよい言葉の流れでしょう?みたいなことを頭の端っこで(なかば自慢気に)思っているわけだけど、実際は、ただただ冗長な話にしてしまいがちだし、なにより、複雑な関係性を描こうとしたときに、こまかいところまで描き出そうとしすぎて、余計に、ごちゃごちゃさせてしまいがちである。あと、なんだかんだスカスカを消し切れているわけでもないし。そのあたりの欠点や弱点を、今回、あらためて認識した。抜け漏れ皆無の説明書みたいな、ミスのない言葉づかいを求めすぎた結果、逆に、読解しづらくなり、結局、いらんミスまで呼び込んでしまっているぞ、みたいなことになっているんじゃないか、って感じられた。こんなもん早々に気づいてもよさそうだったが、(いつものごとく)油断していた。

論文みたいな堅実な書きかたよりも、親しみのある人とトークするような気楽な言葉選びのほうが、(使い慣れているぶん)意外と隙も少なく済んで、しかも聞き手側としても慣れたスタイルで受けとめることができるから、トータル、わかりやすくなって、「適切な文章」が顕現されたことになっている(世界に対する拡散率や浸透率が高くなっている)、みたいな事態が、けっこうな割合で起きているんじゃないか?って思ったのだった。それに相当するような事例も見かけたので、「そもそも堅実さや厳密さが要点ってわけじゃなかったのだった」と、ようやく気づいた。自戒した。