世界は称賛に値する

日記を書きます

意味破砕の9月7日木曜日

読み手を疲れさせない

やわらかくて、静かで、崩れやすく、ささやかな言葉のニュアンスは、たしかにある。文章指南で、「読みやすいよう無駄なところはどんどん削っちゃいましょう」とかアドバイスされることもあるが、その"削り"が、かすかなニュアンスを潰してしまうこともまた、あるだろう。

そういった、ともすれば見逃してしまいかねない、繊細で脆い差異を活かして、なにかしら特別な意味合いを見せつけようとしているのだったら、「贅肉は削り取ってしまいましょう」なんて指針は、まあ余計だ。おせっかいだ。

とは前から思っていた。「と思う」とか「個人的には」あたりの、言うまでもなく当たり前のことなんだから(その主張において「あなたが思っている」のも、それが「個人的な話」なのも、明らかなので)不要じゃん・邪魔じゃん、なんてツッコまれがちな言葉についても、同じようなことを考えていた。書かれなくてよい言葉なんてあるんか?と思っていた。細かいことを言うようだけど、それがあるかないかによる微妙な違いが、とはいえ、ないとは言えないじゃん?とも思っていた。

ただ最近は意見をすこし調整した。人間の持つ性質や能力を念頭に置いた。あるいは、書くことと読むことのスタンスの違いを踏まえた。これって実状に即した"期待のありかた"の形じゃないよなあと反省して、整理した。

なんというか、まずひとつの理解として、とにかく削ろう削ろうと意識してみたって"繊細な意味"は死に絶えたりはしない、全体としての量は減りはするかもしれないが、そのぶん、しっかりと効果を発揮してくれるようにもなる(効力だけ見たら高まりうる)、と見なせるようになったことがある。むしろ削れば削るほど際立ちさえする。逆に、あれもこれもと大切にしようとする過保護で欲張りな振る舞いは、その"繊細な意味"を破滅させかねない。そのことばが人に取り込まれるときの「握り潰される確率」を高めてしまう。そういった情景を想定できるようになった。

簡単に言えば、いくらがんばって細かいところまで"ぜんぶ"書いても読み飛ばされるのがフツーだよ、ということを前提に据えたのだった。そのうえで、精神の襞をぜんぶ殺さないよう大切にしすぎると、逆に、疲弊した人間に握り潰されるぞ、と理解した。

人間はなにかを読むときに、その読解力を極限まで使って読んだりしない。めちゃくちゃ好きな文章ならときにはそれくらいしようとしてくれることだってあるのかもしれないが、読もうとしているその文章(たとえばぼくが書いた文章)をめちゃくちゃ好きになってくれるかは分の悪い賭けだし、たとえ全力で読もうと思ってくれたとしても極限の読解力が実現できるかは謎だ。というか困難だ。リソースも消耗する。やろうとしてやれるものでもない。つまり、構造的にいって、基本的には、どこかしら読み飛ばされる。

人間たちの集中力リソースに限界があるなら、その集中力を消耗させうるほどの、"繊細な意味"をたくさん配置して、慎重な読みを強要するのは、きっと愚かだろう。ちゃんと読んでもらう確率をただ下げるおこないになる。

けれど、削りたくなくても、しかし削れるところを見つけ、削って削って集中力を維持させるよう仕向ければ、いくつかの「意味」だけは、なんとか見つけてくれるかもしれない。元気よく読み続けられるだけの疲れにくい形状に、すこしでも寄せることができれば、深奥の"繊細な意味"にたどりつく可能性を、わずか、高めてくれるかもしれない。

"繊細な意味"は荒々しくあつかわれたらそれだけで砕け散る。そして、読み手の集中力リソースを奪い続けて、元気を奪っていたら、結局は、「雑にあつかわれる」率を高めてしまうだけなんだろう。疲労した読み手は、いろんなところに激突し始めるし、意図せずぎゅっと握り潰したりもする。動きが荒くなる(読みが粗くなる)。ならばそれを避けたほうがよい。そのために、つまり、読み手の元気を維持するために、削る。味を薄くし油を抜いて消化を助ける。といった行為が必要になってくるんだろうな、と思い始めた次第なのであった。

たとえば書き手のぼくとしては、実際毎回"思ってる"んだから、都度都度、文末に「と思う」ってくっつけたっていいじゃんと思うし、ほかにも、「まあ」とか「うん」とか謎のリズムだって気分で付け加えたくなったりする。「とても」「ひどく」「どんどん」「すこし」といった副詞で些細な量的印象だって伝えたくなったりもする。書く側はあくまで「自分のペース」で書いているから、それくらいのワガママだって許されるんだろう。自分の判断で決めた行動は押しつけられた行動より苦痛が少ないというケースもあるし。疲れずにやれてしまうんだと思う。けれど、読み手の集中力は、そういったワガママな「書きたいから書いた言葉」によって、消耗させられていく。気力が奪われていく。

無駄な言葉は読み手の元気を奪う。このあたりのバランスというか、非対称性というか、構造を、気にしてもよいんじゃないかな~、と最近は考えるようになったのだった。もっと読み手のエネルギーを親切にしてあげてもいいんじゃないのという次第である。