世界は称賛に値する

日記を書きます

形を固めたがる12月12日月曜日

びっくり箱イメージ

言葉になったものを目の前に並べてみてから、うーん普通だなあ、と思ったり、けっこう変な理屈が飛び出してきたぞ、って思わされたりする。出てくるまでわからない。こういうビックリ箱的なイメージはずっとある。事前に言葉を用意して現出させている感覚ってあんまりない(準備に手間をかける場面ももちろんあるが)。調理が終わるまでどんな料理を作っているのかさっぱりわからないイメージと言える。それどころか、調理に使う材料すら毎度毎度目の前に飛び出してくるので準備もままならないとすら感じている。ぽんっと飛び出てきた正体不明な気持ちを、まな板の上でするっと言葉にしてみたら、こんな形に落ち着きました、くらいの認識だ(するっとであって、じっくりでないところが、駄目、というか苦手なところなんだろうなとは思う。ここの過程がたいてい雑だ)。記述する行為全般がこういった振る舞いだとは思ってないのだけれど、こういった振る舞いによって支えられている記述行為はある。書きながらラグビーボールみたいにあっちこっちに跳ねる言葉の挙動が楽しい。

跳ねない気持ち

ぜんぜん跳ねない気持ちや心もたまにある。極めて当たり前のものがぽとんと落ちて、そのまま止まってしまうことがある。つなぎうる先がぜんぜん見えなくなる瞬間。昨日の日記にもそんなところがあった。出てきた言葉がそこで止まってしまい、タイミング的にワクチンによる発熱なんかもあったものだから、その影響がここに出てんのか?と考えてしまった。むろん真相は不明だ。まあでも、当たり前のことしか思いつけない(自然な思い、とは言える)、思考停止(見やすい範囲、ではある)、といった現象が、不調から出てきていた可能性は当然ある。前に、睡眠不足時に書いた文章の支離滅裂さにびっくりしてダメージを喰らったことを思い出した。ほんとうにあのときは「普通にちゃんと論理がつながってる」って思いながら書いたのに、読み返したらさっぱりだったからなー。説明不足が過ぎるぞってなった。全体像を見極めた気になる(しっかり整理できていると思う)のって幻想の場合も多いよね、という認識をその後は持つようにしている。わかったかどうかとわかったという気持ちを持ったかどうかは別だ。