世界は称賛に値する

日記を書きます

2024年05月30日(木)ただの違いか、良し悪しのある成長か

否定しづらい性質・向き

聡明や知的といった頭の回転にかかわる性質は否定しづらいし、身体面の健康さや頑強さもあたりまえながら否定しづらい。「深く真面目に考えることなんてできないほうがより素晴らしい」「病気になりやすいほうがよりよいありかただ」とはやっぱり思いづらい。生き延びやすくなる「方向」はどうしたって肯定したくなる。成熟や洗練、スマート、といった"無駄を削ぎ落す"方向も、だいぶ否定しづらいな。

すべての変質を、「ただ変わっただけ」「ただ違うだけ」のものとして、「価値判断」を加えることなく、おこないたくなることはけっこうある。しかし、実際にやろうとすると難しい。そういったフラットなフィルタを通して物事を眺めることも、(頑張れば)できなくはないのだけど、ぜんぜん簡単じゃない。すぐに崩れるフィルタだ。正誤、強弱、良し悪し、美醜といった「向き」があるものとして見てしまうことのほうが、どうしたって多い。

こういう「向き」を削ぎ落して、端的に劣っている、間違っている、と思わなくて済むようになるなら、それは救いだろう。すべてはただ「異なる」だけであって、ただそこにある環境に合うか合わないかだ、って思えるなら、気持ちをとても軽くすることができる。なにより、自分の位置づけを、変に下げすぎずに済むだろう。余計なところまで自己否定しなくてよくなる。過剰に落ちこむこともなくなって、過ごしやすいはずだ。

しかも、学問的な文脈で見ても、そういった解釈のほうが、妥当っぽかったりもする。すべてが「よい」ほうへ進化してきたのではなく、ただ、変わった、変わってきた、だけであって、その変化が、環境にそぐうものであったなら、ただそこに残る、というだけ。状況が、流れが、変わっていくなら、それが「悪く」なることも、当然ありうる。絶対に、確定的に、端的に、正しい性質なんてない。そして、しっかり見れば、たぶん、「知性」や「健康」といったものもまた、こういう「ただ違うだけ」の範疇に入ってくるんだと思う。

といった、「ただ異なる」型の認識のほうが、妥当で有用っぽいにもかかわらず、しかし、「ぼくがダメ人間なんだ」「単に自分のほうが間違っているんだ」という、単純な自己否定に走ってしまうこともまた、少なくない。というか、こちらのほうにも強い魅力がなぜかある。いや、時代や場所、主義思想のメインストリームはどうしたってあるから、「そこに合う」かどうか、気にするのを避けられない(ので誘惑される)のはわかるのだが、しかし、なんとか距離を置けないか、とは考えてみたい。距離を置く工夫というか、ツールやルートを、これまでの人類がいくつか見つけ出してくれた気配もあるため、そういうものも活かしていきたいし。