世界は称賛に値する

日記を書きます

正当化の木曜日 6/29

継ぎ足し「架空」スペース

たとえば「世界」「社会」「人類」あたりの概念が世界観の中ですっかり安定した顔を見せている。いつの間にか侵食されている。ごく自然な気持ちで"この世"を眺めたら、いま見てるものたちの外側にそういったものがあるだろうことが自動的に想起されてしまう。が、そんなものは幻想だとか幻惑だとか言ってもよいとは思う(よい側面もあると思う)。そういった概念、謎の集合を"実際に見聞きした世界像に継ぎ足してみせて「広さ」を増そうとすること"を、拒否し、見知った範囲だけを「ある」と見做す世界観もアリだろうって思う。知覚や実感に基づく経験だけを特別視(あるいは普通視)する趣味あるいは誠実さがあってもよい。

「いま」「ここ」だけが、実際には見てきた範囲なのであって、「いま」「ここ」に関する情報だけがしっかりと得られたものであって、そこからだけ、ぼくらは振る舞いを学んだ。現代の、日本の、空気に、適応してきたし、侵食されてきた。洗脳されてきたと言ってもよい気もする。ただでも、あくまでそれは「現代」「日本」という特定の区域、一定の領域においての"教え"に過ぎなくて、暫定的な案でしかない。心から信じるに足るほどのものかはあやしい。不足も、不適合も、かなりありそうだ。

なのに、かなり盲信しているところ、依存しているところが、あるな、って思う。大人になってからは特に(ときどき)そのことが強く感じられる。たまに、そこから離れられる瞬間があるかな、くらいの事態だ。

適応・侵食・洗脳される前の、子どもの境地

子どもの頃は、まだそういう適応・侵食・洗脳が発生しておらず、シンプルだった。そういった情報に対して「なんで」「どうして」という検査をその都度向けることもできていた。べったりじゃなかったし、余裕もあった。そういった時期の、振る舞い、気持ち、感覚、世界観、のほうが、よいものだったんじゃないかなあ、という疑問を最近はあらためて抱いたりする。森博嗣の小説だと「ヴォイド・シェイパ」シリーズが極めて好きなのだけど、山奥から出てきたばかりのゼンが、さまざまな事柄について、ただ不思議に思い、問い直していく姿を見ていると、落ち着くし、快い。「不思議に思う」「なぜと問う」ことの美しさを感じる。

大人の境地

大人から子どもには戻れないので、子どもの状態に「正しさ」を見てしまうと、もう二度と手の届かない(かもしれない)ところに「正しさ」があることになってしまい、結果、ツライ。ので、極力"大人を正当化しなければならない"といった側面もあるのかな、なんてふうにも考える。

油断していると、やっぱりまあ、大人の境地についての「正しさ」を見出そうとはしがちだ。仕事とか、社会とか、コミュニケーションとか、他人とか、未来とか、生きるとか、とか、そういった事柄が「"大人の境地"から出てくるものたち」なのかなとは思ったりしているのだけど、とにかく、そういったところに「正しさ」を見出したい欲って、確かに自分の場合はある。