世界は称賛に値する

日記を書きます

2024年05月23日(木)口癖の世界観

しつこいくらい言っている

しつこいくらいやってしまった、と認識していても、実際、ほかのひとから見たらそこまで目立ってない、というか、いちいちそこまで着目してないよ、といったことはよく言われる。気にしているのは自分だけ、といったシチュエーションの話だ。自意識が過剰だったり自己評価が過大だったりする話である。ただ、逆もまたしかりなところもあって、気づかれていないだろうと思っている些細な癖(だと思っているもの)が、実はめちゃくちゃ目立っていることだってあるようだから、結論、区別しようがない、とも言える。わからん。

文章を書くときの癖でも、いっつもこの言い回し使っちゃうな~、っていうのが、まあまあある。乱用しないほうがよいのでは、と思われるような、やや奇抜な表現がちょくちょく口をついて出ていると、なおさらそう思う。「振る舞い」とか「じゃなかろうか」とか「都度都度」とか「なんにせよ」とかが、ぼくの場合、気になってしまうやつ、って言えるかな。そうそう、「かな」も頻出させている。ただ、読み手側でそんなことまで気にしているひとがいるのかと問われるなら、むろん、あやしい。実際どんなものかはわからないが、書き手側と読み手側のあいだで、気になるような違和感って、だいぶ齟齬がありそう、とは感じる。「感じる」と「感じる」が近い距離に置かれていたりすると、そんなところも気になったりはする。

頻出単語の世界観

とはいえ、頻出単語というか、口をついて出てくる"少しとがった言い回し"が、結局は、世界観のようなものを形作ってくれているのではないかな、とも思えてきた。

態度や動作のことを「振る舞い」と呼ぶ癖がどうしても抜けないわけだけど、しかし、こういう「しつこく出てくる」ものが、世界観の根源とまではいかなくとも、雰囲気や印象をコントロールしてくれているのではないか、とは想像できる。「おこない」「行為」「挙動」「所作」「仕草」「ムーブ」「アクション」、といった類語だって、たしかに思い浮かべられる。でも、なぜかぼくは、それらを選ばなかった。不随意に選んでしまう言葉があった。後押ししてくる空気があった。そしてその空気のなかで生きている。そういう空気から、なにかが醸し出されてしまう(個性のようなものが漏れ出てしまう)のも、悪くないね、って思った。