世界は称賛に値する

日記を書きます

2023年11月14日(火)価値観を摺り合わせる

ズレ

最近は「ズレ」がなんとなくキーワードだ。目立ってきている。職場や業務に対しては特に思わされるところが多い。指示・理解・確認におけるズレが不穏な空気に繋がっていくシーンも少なからずあるし。というかそもそも、自分と職場における空気を比べたときに、配慮しているところ、重視しているところ、プロセス、リスク、理想形、目的と手段の認識、ひとに求めうるもの、いろんなところに「ズレ」があったのは感じる。

問題意識も価値観も当初からけっこうズレていた。いまの職場に流れている背景とぼくがこれまで見てきた世界の光景は噛み合っていなかった。だからまあ、たぶん、最初にしっかりチューニングしておけばよかったんだろう。そうしていたらもう少しミスも減っていたんじゃないかと思う。しかしチューニングするための場も、しようという空気も、せねばならぬという目的意識も、し続けてきた慣習も経験も、なかった。双方になかった。そのせいですりあわせをしなかった。結果として、物事がいろいろズレたまま進行した。軋轢と摩擦によってミスに繋がることもあった。そのミスによって(わけもわからぬまま)叱責されることだってあった。間違ったことをやった・考えたと指摘され、そうして(わけもわからないせいで)萎縮するようになった。ぼくのこれまで見てきた光景、つまり、問題意識や価値観が、誤りだったんだと感じる癖もつき始めてしまった。

起きていたのはおそらくこういう流れだったのかな、と最近は少し整理ができてきた。最近あった雑談の場で、ぼくの理解、ぼくの特性、ぼくのミス、などをふくめた近況を聞いてもらえたことによって、物事が客観視できるようになり、そのあたりがよりくっきり見えるようになってきた気もする。ズレがあったこと、そして、そういったズレにフォーカスする慣習のない組織だったこと、ズレを摺り合わせることに重きを置かない文化圏であったこと、などがあらためて浮き彫りになった。組織のそういった構造や文化にそもそも欠陥があったと思うべきなんじゃないの、という指摘ももらった。慰めの言葉だったのかもしれない。が、単なる的確な指摘だったのかもしれない。いずれにしても、自己評価、自己否定、無価値や無意味、といった概念らを気にして凹んでいる場合でもないんじゃない、とは言ってもらえた気分になった。

チューニング前提じゃない文化圏

チューニングという振る舞いがほぼ意識されていない組織の構造・文化が、まあ、書いているうちに気にはなってきた。チューニングを気にしない眼差しの背後にあるのは、つまり、「同質なのは当然」「同質になることが正義」「同質こそがよいものだ」「なんでオマエは同質じゃないんだ」「早く同質になれ」といった思考背景なんじゃないかな、とも思った。いうなれば、正答があるのになんでそれに即してないんだ?正しいルールがあるのになんで従ってないの?といったいらだちだ。たしかに誰もが従うべき答えがあることを前提にしているなら、同質になれ、って言い始めるのは妥当だと思える。ズレている人を見たら至極当然のように叱責だってするに違いない。あらためて思い返してみたらそんな場面はたくさんあった。正しい答えも正しいルールもろくに説明されないまま、しかし、なんでオマエは正しさに沿って動いてないんだ、と叱責されるシーンが数多くあった。