世界は称賛に値する

日記を書きます

2024年05月18日(土)画一的になっていくタイプの進歩

画一的な冒頭ハイライト

冒頭でハイライトシーンを見せる手法、形式がかなり定番化してきた。もともと動画編集で見かけることの多いやりかただったのだけど、最近だと、Twitterのマンガ紹介でも見かける機会が増えた。少なくともぼくの観測範囲内でははびこっている印象かな。一番目の画像にまずハイライトシーンが配置されている。そしてたしかに、実際、釣られてそのあとを読んでいる。ある程度の効果はあるんだろう。

ぜんぶがぜんぶ同じになったらつまらん、といった反骨精神も、わかなくはない。が、人体構造上・人間生理的に逃れられないリアクションがあるのも間違いなくて、もしこれがそれに値するなら、制止しきれるものでもないんだろう。みんながみんな食事を取っているのはつまらんよね、と謳って、「食事を取らない」ことを推奨しても、行き届くわけもない。どうしたって効果的なやりかたがあるなら、ひとびとがそこに詰めかけるというか、収束していくのは、避けられない。

人体構造上・人間整理的に逃れようのない性質に引きずられて、"働きかけかた"が画一的になっていく流れは、とはいえ、よいことばかりでもないんだろう。あんまり好きでもない。しょうがないよね、と諦観していればよいわけでもないんだと思っている。慣れや飽きが阻害してくれる場合も、あくまで程度問題である場合も、なくはないんだろうけど、だからといって、静観していればよいわけでもない。快楽物質に踊らされるギャンブルに群がる人類を放置していてもよいことはない。

「巨人の肩の上に乗る」じゃないけれど、人類が過去に見つけだした「優れた理解」「適した手法」が、疑問視されなくなっていくことで(常識化して、染み通っていくことで)、次なる段階に手を届かせてくれることも、まあ、あるんだとは思う。新しい境地に辿り着くための足掛かりになってくれることだってきっとある。ほとんどのコンテンツの冒頭にハイライトシーンが置かれるようになってしまったら、状況としては同じものばかりでつまらんのかもしれないが、しかし、次の段階に行くためには、自明のものにならないといけない可能性も(確率は低くとも)なくはない。

よさげなやりかたが画一的に拡がっていって、定番化して、おんなじようなものばっかりになる、っていうシチュエーションの受け止めかたは難しいな、とはあらためて思ったのだった。そんなのつまらんと言いたくなることはたしかにあるし、言うのも簡単だが、しかしそれは、過渡期で文句が言いやすい、というだけかもしれない。欠点が言いやすいものにツッコんでいるだけかもしれない。中長期的な便益を無視して、安易にケチを付けているだけな可能性はある。

「冒頭部ハイライトシーン配置」が、人類にとって最良最適の技だとは思っていないし、「このやりかたも見飽きてきたので、次いきましょう」といった、刷新と新鮮味の優先順位のほうがいずれ高くなっていくんだろうとは思ってもいるのだけど、だからって、「画一的になっていく」現象を一律で責められるものでもないか、とは考えていた。