世界は称賛に値する

日記を書きます

2024年04月10日(水)必要なときだけ形容詞を置く

雨も良い日

ここ何日か雨のぱらつく日が続いた。天候が崩れている、と当初は書こうとしたのだけど、やめた。天気が悪いという言い回しなんかもそうだが、「雨」を不備・欠点エリアに配置することが当然視されすぎなのではとは考える。ダメなものあつかいされすぎじゃんと思う。人類史的にそうだったんだからしょうがないのでは、という判定基準はあってもよい。が、どこかでそれが逆転させられるくらいの見直しが図られたってよいのにな〜とは思ってしまう。雨は恵み、雨はキレイ、雨の日はわくわくする、といった新たな理解が積み重なっていって、いつしか、人類史規模の認識が覆ってくれたらおもしろいのに、とか考える。生活習慣や生活レベルの大きな変節にともなって、生活領域でのパラダイムシフトが起こる事態には、ちょっとあこがれている。

細かい形容が要るか要らないか

たくさん、ちょっと、ときどき、なんだかんだ、妙に、不意に、むしろ、といった小さい言い回しを継ぎ足したくなる癖はある。ことばを重ねられるだけ重ねたほうが正確な情報伝達が可能だとか信じているところがあるんだろう。だが、すべての情報を組み入れて伝えようとすることが、かならずしも妥当なわけじゃないんだぞ、とも思う。冷蔵庫にある食材とにかく入れまくれば最高の料理ができるわけじゃないんだぞ、とも言える。

いちいち「すごく」とか「やや」とか「わずかに」とか「ふと」とか言わなくてもよい。割合や分量、多寡が問われる場面と問われない場面があって、特に求められていないときにそれを組み入れるなら、それは余計だ。削ってよい。あとたとえば、指示代名詞を排除して、すべて、正しい名詞を使って書けば、正しい言葉が書けるということでもない。それも余計なお世話だろう。

なんとなく思ったのか、だいぶ思ったのか、そしてそれを、わざわざ説明すべき場面なのかどうか、ケースバイケースとして、都度都度、ちゃんと判断すべきなんだろう。じゃないと、情報量が増えすぎて、咀嚼不可能なレベルにさえなってしまい、読んでもらえなくなってしまう。求められていない場面で求められていないものを削る、という手際も重要なんだと思う。正確さを目指していった結果が「読んでもらえない」なら意味なしだ。