世界は称賛に値する

日記を書きます

人類発展の9月2日土曜日

緊迫感

新型コロナウイルスに罹ったひとを見かけることがまた増えた。こうして身近まで近寄られると緊迫感が増す。真剣さがにじむ。が、近寄られるまで真面目に捉えられないスタンスは、そもそもよくないんじゃないの、友とも思う。判断が遅い、対処が遅い、間に合わない、といった事態と紙一重だろう。このあたりの間合いの調整は難しい。最適な距離は謎だ。雰囲気に頼るしかないところもあるが雰囲気なんてもんがあてになるかも微妙である。まわりのひとに合わせたくもなるけど(真似をしたくもなるけれど)、別にそれが正解でもない。なんであれ、わかりうる範囲のどこかで、決めるしかない。待ちから攻めに切り替える瞬間を、自分なりにうまくつかむしかない。

なんでこんなふうに世界の"わからなさ"に襲われなければならないんだ、わざわざ考えなくちゃいけなくなったんだ、不安定な時代になってしまった、運の悪い世相だ、なんてふうに昨今の情勢を捉えそうにもなってしまうのだけど、どちらかといえば、こちらが標準なんだろう。妙に見通しよく比較的平和っぽくやれていたのは、戦後復興・高度成長・コンピューターの勃興などの加速装置が綺麗に噛み合ったことによる、奇跡的な安定だったんじゃないかとは感じる。無知・がむしゃら、なんかも混ざっていそうだけど。まあいずれにしても、ここから先にさらなる安定を求めるなら、別の装置、別のアプローチが、必要になってくるんじゃなかろうか。過去の加速装置はボロボロの風情だ。

人類を"伸ばして"くれそうな新しい装置が、あとからあとから湧いて出てきてくれている、とは感じている。が、振り回されてばっかりな印象も強い。制御できていない。インターネットもSNSもサブスクもAIもVRも人類にはまだ早かったと言われすぎである。文学や哲学や思想、芸術、詩や絵画、記録、教育、仕事、他人、夢や希望、といった見慣れたものたちさえ、いまだに上手くあつかえていない気もするし。もろもろ下手っぴだ。これからはこういった物事をより精緻に扱っていく必要があるんだろう。

ただまあ、どうかな~。可能なのかな~。従来のやりかた・慣例・習慣、脳や体に染みついた拘束を、を、都度都度、切断していくことがキモだとは思うんだけど、そこが人類はほんとうに苦手っぽいからな~。世代交代が必須そうなところはマジでなんとかしてほしい。じゃないと時間がかかりすぎる。生きているあいだには見られない景色かもしれないなとは感じる。それでも発展プロセスくらい見ていけたらなとは思うが(他人事みたいに書くのもどうかと思うが)。

世代交代でなんとか進んでいこうとする、ってのは別に人類に限ったことでもないか。人類はそのへんが苦手というよりは、地球の生物が苦手としている範囲なんだろう。というふうに見るのであれば、人類だけがそこをうまく克服してくれたりしないかな〜、っていう楽観は流石に期待過剰な気はする。が、しかし、それを上回る(または誤魔化す)工夫が出てこないとも限らない。それくらいの人類知への期待はあってよい。まだまだ途上だし。迂回路くらいはありそう。