世界は称賛に値する

日記を書きます

2024年03月29日(金)落ち着いたらしい金曜日

愚痴を書きすぎた

職場の愚痴をだらだらと書き連ねてしまったここ数日だった。厳密にいえば、状況も少しずつ動いているし、判断は難しい。無駄に書きすぎた気もしている。文章を重ねすぎて過剰な表現になりすぎた気もする。ノーダメージでいられる安全圏から口だけ出させろ、いつだって安心させてくれ、微塵も負荷をかけるな、といったワガママを言いたいわけではないんだよな〜、とは思う。対価のためにリスクを取る必要もあるのもわかる。そこは別によい。よいので、「よくない」という意味に変換されていたら困る。言うほど不安でもないのかもな、いやでも不安かもね、といったぐるぐるした混乱も、見当のつけづらさに拍車をかけている。整理整頓が難しい。愚痴をぶつけすぎて現状をつかみ損ねていることが逆によくわかってきたここ数日でもあった。

10分文章

執筆時間を10分確保した。書く。分数を定め、そのあいだ"がんがん動き回ってみせよう"的な選択肢を選ぶと、結果的に、満足感は強まる。ここで2分たった。執筆という行為は「制限時間を定める」とけっこう相性がよいんじゃないかとは感じている。満足感、達成感、充実感、いずれも増幅できる。思ったより書けた~、という事態が頻発してくれるおかげもある(個人の気質や運にももちろんよるんだろうが)。とかやっているうちに6分がたった。なんだかんだ修正に時間をとられている。文字を直す、言い回しを直す、論理を直す、といったところの割合が大きいときは、まあ、気持ちよさが減じてしまう気もする。が、「直す」行為そのものはけっこうな快感であるため、結局はとんとんなんじゃなかろうか。文章を書くときに「否定文」にフォーカスしたくなるケースがたまにある。いまもそうなっている。否定文(~ではない)を書くことが、軌道修正につながるというか、流れを整える作用があるなあ、と感じていたりするからだ。それによって、輪郭が整えられていくような爽快感が得られる。これが心地よい。10分制限を課したことで、直す行為に目が向き、そんな心地よさにも目を向けさせられた。2分超過した。終わり。