世界は称賛に値する

日記を書きます

質問する二十六日、日曜日

スマホ視野

スマートフォンの画面で文章を書こうとすると、視野が狭くなる。視野が狭くなるというか、コンピューター的に喩えるなら「作業メモリ」が減る感覚があった。書いているあいだに前提として認識しておける背景や文脈が、少なくなる。結果、流れに対する見逃しが多くなり、踏み外すことも増えて、論理の飛躍や破綻も増える。同じことを話している人を見かけて、だよね〜、と思ったこともある。ほかのひとも感じているならそういう変化があるんだろう、と乗っかった。画面のおおきさに起因する問題ではないかと考えていたのだけど、ただ、最近、あんまりそれを感じなくなってきた。なにかに慣れたのか、そうでもなくなってきた気がする。画面のおおきさに起因する問題というよりかは、(慣れなくて)画面のおおきさに気を取られて、釣られていただけなのかもしれない。いやでも、それまでに書いた文字列を(文脈を把握し直すために)すぐ見返せるかどうか、そしてどれくらいの量がすぐに目に入るか、っていうのが、関係しないわけもないのかなあ。電子書籍でフォントサイズをめちゃくちゃおおきくして画面上に10文字とかしか表示できないようにした読書(これはすぐ試せる)、あるいは、現状書いている一行だけしか表示されないエディタ(古いワープロがこんな雰囲気であった)、とかを想定してみたら、文章への感覚がかなり変わるのは想像できる。感覚は変わるけど(変わるのはそりゃ変わるでしょ)、だからって「文章が書きづらい」とはイコールではない、というところかなあ。

スマートフォンで執筆活動するのって違和感ありすぎて、無理、くらいのことを思っていた時期があったわけだけど、この小説はぜんぶスマホで書きました、というようなエピソードも見かけるようになって、無理なんてことはないのだなと反省させられることになった。最初に聞いたのが藤井太洋氏のデビュー作(『Gene Mapper』)だったのを覚えている。その後、山下澄人氏の『しんせかい』もスマホで書かれたと聞いた。ほかにもちょこちょこ見かけている。

togetter.com

わざわざなぜ

ブログって変な趣味だという気持ちがある。読書好きの人に、釣り好きの人に、登山好きの人に、なぜそれをするんだい?とはあまり思わないのだけど、ブログを書いている人に、なんでブログを書くんでしょうか?と思う瞬間はある。自分に対して、なぜ自分はブログ的なものを書くんだろう、と自問自答することもなくはない(自分に対する疑問だけ「ブログ的」という言葉を使ったのは、自分のやっているものが「ブログ」だとは思ってないせい)(ブログに近いもの――今の時代だとブログという枠組みに入ってしまうもの、くらいの認識)。その問いが「”変”だという認識」から発生している。ブログの文章を読ませていただいているときに、その文章に対して「意味を問う」目線が発生しがちなので、これって面白い現象だ、と思っているのだった。文章の背景にこんなふうな「問い」が見えている空間ってあんまりない。目を向けようと発想することがあんまりない。一般的な読書中にもそれくらいできたほうがよいのでは、とか、それくらい普段からやってていいでしょ(やってるよ)、とか、そういうツッコミもぜんぜんありうるけれど……。まあでも、自分はできてない。ブログくらいの変さがないと、出てこない目線なのだ。媒体としての新しさ、そして慣れなさ、および、生活や個人との距離の近さが、そんな「問いの視線」を呼び起こしてくれているのだと想像している。新しいと感じているものに対しては「わざわざそれをする理由」への「問い」を発生させやすい(よくわかんないものだから)、というのはあるんだろう。傾向や習性としてよいものかはあやしい。そして、インターネットでブログを書かなくなっていたあいだ、このあたりの問いの視線のことはすっかり忘れていた。

結果うそになる

筆が乗るのと筆が滑るのは紙一重だ。というか場合によってはほぼ同じだろう。歯止めが利かなくなる。誇張という名目で嘘も混ぜ始める。みたいなことを、常套句に対しても思っている。文章を書くときに(無分別に)常套句を使うのはよくない、と言われる理由がこれだろう、という認識があるのだった。常套句がカバーしてくれる範囲、定型すぎて、実際にはない空間まで、あるものとして覆ってくれてしまう。空白部分まで含んで言えてしまう(言われてしまう)。言葉が嘘になる(ことがある)。