世界は称賛に値する

日記を書きます

2024年03月18日(月)思い出したいらしい月曜日

思い出すのに時間を使う

油断すると「思い出す」のにけっこうな時間を費やしている。なにか書きたいことがあったな、という印象だけが頭の中に残っていて、しかし詳細が思い出せないときに、なんとか思い出すことができないものかと、かなりの時間を使ってしまっていることがあるなと思う。ときには、その日読んだ文章をぜんぶほじくり返そうとするくらいの勢いで検索を繰り返していたりもするし。その時間を「別のことを書こう」という前向きな精神のもとで活用していたら、もっとよいことが書けていたんじゃないのか、と思うことも少なくない。なんというか、うまく「思い出せる」こともなくはなくて、結果、そういったときの快感が忘れられない、ってことになっているんじゃないかな、とは思った。快楽への耽溺を感じて少し反省した。

思い出す表現

日記を書いたあと、特に、ごちゃごちゃと歯切れの悪い日記を書いたあとの、翌日か翌々日くらいに、その「長ったらしくなった説明」を、切れ味のよいひと言で、すぱっと切り取ってみせることばに(そこに適した比喩や慣用句や熟語と)出会えることがあったりはする。そういえばごちゃごちゃと書いてしまったが、こんな、すぱっと「決め」る言い回しが、世の中にはあったな、と思い出せることがあって、なんとなくそういうことばは、並列させておきたい、と思っていたりもする。その表現を思い出せなかったことはもちろん悔しいが、思い出せない中なんとか書こうとした姿勢と、工夫した言葉は尊重しておきたいぜ、とか思って、結果、どちらも消さずに、記録しておきましょうと判断する形だ。今後、同じ状況が訪れたときには、選択肢として挙げられるようにしておきたい、とも思う。こういう、「あ!思い出した!」的な執筆欲こそ、書く段になって思い出せなくなりがちではあるのだけども。

例示というほどでもないけど、たとえば「有機的」「多元論」「メソッド」「個別具体的」「メランコリー」「腹案」みたいな単語が出てこなかったり、「生の」「躍起になる」「大それた」「出来合い」「眉をひそめる」「釘を刺す」って言い回しが出てこなかったりする。難解な表現とまでは言わなくとも、ちょっとひねった、あるいは、ほどよく洒落た、表現が、出てこないことがある。いつだって出せるとは限らない。