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日記を書きます

2023年10月11日(水)短縮精神と、まあまあの反省

短く書く精神

業務で文章を書くことが増えて、「結論(論題・案)を最初に見せて理解力をコントロールする」「見せた結論に至るまでの道のりとして不要な情報は削る」「解釈の幅が拡がらないよう総体的なフォーカスを絞る」「依頼目的と対応案の候補を明確に書く」あたりは意識するようになった。時間リソース、理解リソースを相手に使ってもらうことを念頭に置くようにはなった。短く書こう精神が強めの人格を構築できた、というか。

この「短く書こう精神」の人格から、日記を短く書く気ないの?ってツッコまれることもある。なんか無駄って言ったらあれだけど変に長くない?といったツッコミだ。表現を工夫したがるところがまず気になるようだ。普段使わないけど格好よい言い回しだな~、こういう言い回しが使いたいな~、と「素敵な言葉の流れ」を探しがちなのが気に食わない。そしてまた、フォーカスがいまいち絞られることなくフラフラしているところも気になる。確かに一言で言えるようなことに、別の側面の話や遠回しの表現を足して、重くしていることはある。なんとなく連想しただけのことを書き足したりもしている。

こういうのが意外と有益なんだ、こういうものこそが思いもつかない着想をもたらしてくれるんだ、とその人格に対して説明することは多いかなと思った(それで納得してもらえそうだと感じている)。構築された既定のルートをなぞっているだけじゃ、固まっていくし、古くなっていくし、腐っていくし、しぼんでいく、といった見解は見かける。外部性がもたらしてくれる養分と光はだいぶ重要らしい。それらがないと拡がりも伸びも鈍る。といった整理整頓によって、「短く書こう」精神と和解できるんじゃなかろうか。とはいえツッコミがごもっともなことも当然あって、たとえば同じことを繰り返してしまっているだけの冗長な文なども確かにある。そこは指摘を活かしたい。「そこで事例5つ挙げているけど3つでいいんじゃない?」とかおっしゃる通りだ。

なにが可能だったか

業者への案内をおこなった。いわば道案内のような業務だった。非常に気になる問題点・反省点はなかったと思う。が、わかりやすい不備が思い出せないと、逆に、「頑張りかた」が見出せず、むしろ不安になるところがあるな。完璧だと思えればまた違うんだろうけどそこまででもない。業務内容がシンプルすぎたせいで「こうすればよかった」という一段上の状態をうまく想像することができていないが、とはいえやれることはあったと思う。たいていやれることはある。

「背景として、やるべきこと・やりたいこと・できることをもっと精緻に理解しておくことは可能だった」「理想の最終形を業者側に伝え、さらに、相手側に迅速かつ正確に動いてもらうための働きかけ・確認を進めることは可能だった」「業者側から確認への答えを引き出して、今後想定される状況を、よりわかりやすく社内に伝えることは可能だった」といったことを考えてみた。なにが「可能だったか」という問いかけは脳を働かせるのに役に立つな。