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日記を書きます

2024年03月09日(土)興味深かったらしい土曜日

日本語の秘密

日本語の秘密 (講談社現代新書)

『日本語の秘密』(川原繁人/講談社現代新書)を少し読んだ。俵万智さん、Mummy-Dさん、山寺宏一さん、川添愛さん、という「ことば」を使うひとたち、四名にいろいろな話を聴いて取りまとめた新書だ。

山寺宏一さんの話の中に興味深いところがあったので書き留めておきたい。忘れないようにしたい。「声優はたしかに声のバリエーションが求められる。しかし、それは結果であって目的ではない。目的はあくまで、演じるキャラクターの魅力を、視聴者のもとまで、しっかり届けることにある」といった言い回しに、納得させられるところがあった。話の内容ではなくて、「結果」と「目的」の対比のさせかたが、新鮮だった。わかりやすい事例を提示していただけて見通しがよくなった。

あるシチュエーションにおいて、そのうちの要素のひとつが、「結果」ではなく「目的」であるということ。また、そういったときの「結果」と「目的」の"誤認されがち"な状態について、認識をあらためることができた。

主目的にいたるまでの主通路が「目的」であるかのように見えてしまっている事態って、きっと多い。そのせいで誤認させられていることも多いんだと思う。いっつも(通りやすいために)主通路を選ぶことになっているが(慣れているし通過しやすいし無邪気に選んでしまう)、しかしそれは、通りやすいから、「結果」としてそうなっているだけ、であって、そもそもの「目的」はそこではない、ってことが、まあある。

みかんを食べるためにいっつもみかんの皮を剥いていたら、「みかんの皮を剥く」のが「目的」に見えるかもしれない。いや、この例はちょっと違う気もするな……。みかんを食べるのに、いっつもみかんを口の中に入れていたら、「みかんを口に入れる」のが「目的」に見えるかもしれない。というのはどうだろう。多少は妥当な気はする。「みかんを口に入れる」のって、過程であるかのようには見えにくい(目的っぽく見える)し。

プロセスが「目的」に見えると、ゴールも見誤って、いろいろズレる

みかんの皮を剥くのも、みかんを口の中に入れるのも、あくまで、「みかんを食べる」ための、効率的・効果的なプロセスであって――あくまで、たいへん選ばれやすい通路(主通路)であって、「結果」だ。でも、あまりに選ばれやすいため――みんながそこに向かって動くため、「目的」かのように見える。こんなふうに、「結果」的に選ばれまくるプロセスが「目的」であるかのように誤認される、という構造が、まあ、あるんだと理解した。

そして、こういった「結果」と「目的」の見間違えが、いずれ、改善や訂正を試みようとしたときに、さらなるズレに繋がっていくんだろう、と思った。判断ミスに呼び起こす。目的・目標・ゴールにかかわる認識がズレている状態って、その後のルート選びを、あっさりミスらせる印象もたしかにあるし。

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