世界は称賛に値する

日記を書きます

哲学的文章と文学的文章を、一言で表すなら(従うところのものを一つあげる)プロセス

▼▼哲学的文章と文学的文章、という線引きが疑問として脳内に渦巻いてる昨今だ。
▼▼哲学的文章が「従っているところのもの」を一言で表現するなら「精度」かなー、なんてふうに最初は思いついて、なら文学的文章を一言で表すものは何だろう、という疑問に派生したのだけど、いや文学的文章だって「精度」重視って言えるところはあるでしょうよ? と、思考を進めていくうちに思えてきたのだった。
▼▼精度重視──精確に合っているかどうか配慮しながら書かれる──合致具合を確認しながら精緻かつ精密に合わせていこうとする眼差しや振る舞いがある、というのは、文学的文章だって大切にしてる気がするけどね……、と思えた、のだ。▼▼精度重視、というのはつまり「綺麗に合わせようとする」ことだろう。でもって、哲学も文学も「合わせようとする」運動を大切にしているんじゃないか、な。
▼▼というところから、いろいろ検討してみて、哲学に関しては「真実」「真理」「普遍性」「知性」あたりの言葉が思い浮かび、文学に関しては「誠実さ」「特殊なものも一般の中に織り込んでいく」「表現」あたり言葉、が思い浮かんだ。
▼▼うーん、なんかこれ、互いに似たやつ混じってない?
▼▼そうそう、そうなんだよねえ……。
▼▼「普遍性」と「特殊なものも一般の中に織り込んでいく」とかさ、結局同じことじゃないの? 違うと思って挙げてるの? どうなん?
▼▼多少の違いは、あるかも、くらいの気持ちだ。あと、文学側に「誠実」を思いついたけど、哲学だって「知的誠実」みたいなものがある気するしねえ……。
▼▼あとさあ、哲学側の「真実」や「真理」に関しては、今時というか近頃というか、現代や近代の哲学の流れで、そんなものはない、少なくとも問題の前提には置かれなくなったよ、みたいなことになってたりするんじゃないんすかね?
▼▼哲学に「知性」入れてるけど、文学が「知性」重視じゃない、とまでは言えない気がするしな……。微妙なところだけど、「頭」「頭を使う」あるいは「言葉」、あたりが、文学側の背景には、あって──文学を一言で表すには、という問いの回答として置けるほどのものではないにせよ、大切にされているものとしてあって、このあたりが「知」「知性」と重なっちゃうこともあるのでは? いや、でも、文学は知性だけじゃなく身体性とかも気にしてる、のかなー? しかしそれは哲学も気にしてそうな気もする。身体性の話題を組み込んでくる哲学の話も結構ある。
▼▼やっぱいろいろ考えてみたけど、文学の軸は「表現」でよい気はする、かなー。
▼▼これさ、混ぜちゃってさ(混ぜる、ってことでもないけど……)、文学は「表現への誠実さ」とかでよいんではない? で、哲学も、誠実さはあると思うので混ぜましょうというか、哲学の従うところはこれ、っていうのがあるんだろうから、それに対する「誠実さ」って言えれば、対比的に見せられる気がするけど。
▼▼だとやっぱり「真理」あたりにならんかなー。「真理への誠実さ」?
▼▼あ、思いついた。そこは「理屈」じゃないすかね? 「理屈への誠実さ」。理が通ってる、かどうか。(論理、じゃ駄目なん?とは思いつつ……)
▼▼なるほど。それだとたしかに文学とは切り離せるかも。
▼▼まあこう言うと、文学は理屈的じゃない、ってことになっちゃうわけだけど。
▼▼いいんじゃないかな? 駄目かな? 文学は理屈を乗り越えようとする運動を内包してる気はするけどねえ……。
▼▼まあそうかも……。(しかし哲学は内包してないのかな?という疑問は出る)
▼▼ていうか、なんでこれを、この問いを、こんな気にしてるの?
▼▼今さらそれ聞く? うーん、こういうのは、自ずからおもしろそうだと思える問題に出逢えた、ってことだと思うので、なぜ?とか言われてもだよね。出逢いです。