クリティカル文書
昨日書いた業務振り返り日記は妙に満足感が強かった。切れ味の鋭い着想が書けていたわけではなく、拡がりや深みや新しさがあったわけでもなく、しかも独りよがりな話だったとも思う。が、書けてよかった。あれが書けたことで理解の密度・彩度・精度が高まったんじゃないかと感じている。書かなかった自分より書いた自分のほうが明らかによかった。脳内がよい雰囲気になった。そんな想像ができている。嬉しい気持ちだ。いや別に自画自賛したいわけでもないのだが、しかし、ぼくにとってクリティカルなものが書けたときに、クリティカルだったよ、としっかり示しておかないと、誰も示せるひとがいなくなっちゃうからなあ、とは思った。ぼくにとってのよさはぼくにしか書けない。ゆえに書く価値はあると判断してもよい。極めて効果があった位置を記録しておくのって重要だとも思うし。
土曜日
三連休の二日目だ。三連休に物珍しさを覚えて進捗を記そうとする癖がある。三連休のたびに「三連休の×日目だ」って書いている。前職のときは連休が少し珍しかったのでその名残だろう。
三連休の二日目や最終日になって、もう終わってしまうよ、かなしいね、よよよ、なんてふうに思うようにはなった。けれど、こういった精神や認識って別に欲していなかった。昨日も明日も切断して今日だけにフォーカスして笑ったり泣いたりするくらいがよいという判断がむしろあった。数時間前も、数十分あとも、関係のない別世界だと見なすくらいの境地で、今を特別あつかいするくらいのことがしたかった。半ば無理矢理にそんな認識を持っていた時期もあったが、しかしいつの間にか、金曜日の夜は歓んで、日曜日の夜は暗くなる、みたいな精神が常態化してしまった。反骨精神もどこかに行ってしまった。逆張り、天の邪鬼、斜に構える、世をすねる、といったところを狙いたかったわけではない。ただ、とはいえ、"常識"の侵食を押さえられないのはいまでも少し嫌かな~。抗えるだけの余裕や冗長性は持っておきたい。気づかないまま迎合しているというか屈服しているというか、そういった形状は避けたい。