こまかなニュアンスの違い
「無敵」「最強」「不敗」「常勝」「無双」「完璧」なんて、ぜんぶ同じじゃんと思っていた時期がある。強さランキング談義みたいなものでも、よく比べられたりしている。「飛び抜けて」「図抜けて」「群を抜いて」「抜きん出て」の区別も、つくんだかつかないんだか、わかりにくい。ただ、同じではない。「見抜く」「見通す」「見定める」「見極める」なんかも、似ているようでありながら、違いは感じる。だいたいはちょっとずつ違う。書いた文章のなかで好き勝手に入れ替えようとすると、意外な違和感が発生してきたりもする。「気が進まない」「気が向かない」を横に並べて、見比べて見たときに、ニュアンスと、それにともなう使いどころが、なんとなく違うことを、軽く察するくらいのことはできる。自分のなかでも、使っている場面が違うな、って気づけたりする。
こういう細やかなことばの違いがつかめることを、おもしろがっているところはある。ことばが持つ特性の、好きなところでもある。誰かと「この言葉とこの言葉って、範囲とか、強調しているところが、こういうふうに違うから、こういうふうに使い分けられているね」みたいに話してみるのも、楽しい。
ただ、相手と自分のあいだで、そんな言葉のニュアンスが持つ違いを、ほんとうに、同じような繊細さのもとで、見極められているのかな?と、不安にもなる。細やかな違いだからこそ、ひとによって掴みかたがだいぶ違っていて、ほんのすこしだけ、見る範囲がズレてもいて、けれど、細やかすぎるせいで、気づけない、みたいな事態が起こっているんじゃないかな~、と思うことはあるのだった。
「把握しました」と「掌握しました」って、重心やイメージや使える範囲が、こういうふうに異なるよね?そうそうそうなんだよね、みたいな対話が、ほんとうに、まったく同じ目線のもとで、おこなわれているのか、わからない。些細な誤解が、しかし着実に積み重なって、まるで違うところに立っていることだって、ありうると思う。とは考えてみたものの、これくらいのズレは、所詮は日常茶飯事というか、前提で、そういうズレをずっと受けとめながら、人類や生物はやってきたのだ、という可能性のほうが高いんだよな、とは思った。そこまでシビアだと思ってもそれはそれで違う気もする。