日曜日
お子様の変貌がもろもろ目立った三連休であった。今回の三連休に限らず、実際は、連日、できることが増えていっているんだろう。着実にステップアップしているんだとは思う。が、この三連休はわかりやすく新鮮な出来事が多かった。まとめてやってきた。いくつかの要素がまとめて結実するようななにかがあったんじゃなかろうか。発語が明瞭になったし、おもちゃの使いかたの理解度が増したし、ほんの少しだけど立ったし、意に沿わない事態が想定されると劇的に怒るようになった。おもしろい。相対的に笑顔の時間が減ったことだけは寂しいねって感じだ。
雑談
昨夜の土曜夜にオンライン雑談をした。いわゆる「若いころもっと勉強しておけばよかった後悔」の話が出た。これはほんとうにそうだなあと思う。そして、いま、学生時代の自分に出会えたとしたら、そこに関して、なにか言えることがあるんだろうか、とも考える。勉強や学問の道に誘いこめるかなとシミュレーションしてみることがある。その後の話をするなら学問はとても好きになった。奥深くて素敵だ。人類の残してきた知の営みへの尊敬の念も強まった。が、熱弁をふるったところでその思いが伝わるかはあやしい。たとえ伝わったところで誘導できるかも謎である。興味は持っていたと思うので「学びがまるで好きじゃないひとに"勉強のしかた"や"学問のおもしろさ"を教える」よりは難易度低い気もするが。そして、それで言うなら、中学生から高校生の頃の自分は、世界と社会における「枠組み」「背景」「構造」「全体像」「当たり前に物事を見たときにどこがどうなっているか」といった物事が、うまく俯瞰できず、ぼんやりしていたので、そのあたりをわかりやすく見せてあげるだけで、だいぶ変わってくるんじゃないか、って思えたりはする。視野を拡げてあげるだけで積極的に動き始める部分はありそうだ。
と、書きながら思ったのだけど、いまの自分って、世界・社会のことが(少なくとも昔よりは)見えている、って明らかに判定しているんだよな~。わかっている前提で賢しらになにかを語っているようなこともあるし。若い頃より「わかっていること」が増えているとなぜだか信じている。正しいことが言えるようになったとなぜだか感じている。しかし厳密に見ればツッコミどころだろう。
ぼくが世界や社会に対し、「なるほどこういうことか」「こうだからこうなる」「つまりこうするとよい」と思えるようになったのって、結局のところ、無数の意見を見聞きしてきたから、それらには寄りかかれそうだから、というだけの理由に過ぎない。頭の中の「意見」が増えただけだ。そしてそれを(量が増えたからって)「総意」であるかのように見なし、「安定」していると思い始めて、「根拠」にし始めただけである。こんなの単なる楽観じゃんって思う。無数の「意見」が並んでいるんだからその上には立てる、となぜか信じ始め、謎の自信満々をいだいて立ってみせている。しかし、それが薄氷だと、幻想だと、空虚だと、稀に気づく。壮大さには普段から惑わされるようになってしまったけれど、これは、そう、ただ壮大なだけだ、と、気づける瞬間はある。むろん、ぜんぶを確かめながら生きることはできない。だから、多少は、その「壮大な塊」に寄りかからざるを得ないんだとは思う。けど、それでも、自覚はなくさないようにしたい。よくわからない不定形なものを足場にしてドヤ顔で暮らしていることは忘れずにいたい。