数年前の報告書の出来が悪かった
数年前の仕事を振り返ってみたら、記憶の中のものより悪い出来栄えだった。なんとなくそんな気はしていた。だからこそ振り返らないようにしていたところもおそらくある。類似した業務をおこなう予定があったので、「あの頃よりはよいものを目指したいものだ」と思い立ち、意を決して読み返してみた。が、理解・報告の粒度がなかなかに粗かった。もうちょっと、いらないところを削ぎ落とし、順番を入れ替え、同じ話題を取りまとめるような処理が、できたんじゃないか、と反省させられた。
近々おこなう類似の業務について考えていた。数年前に提出した報告書よりは、たぶん、よいものが作れるんじゃないかとは思う。時間がすぎたせいか、鍛錬が進んだのか、改善すべきところや違和感のもとが、多少は見定められるようになった。客観性は持てた。が、だからといって、次は満足いくレベルまで引き延ばせるぜ、とは言い切れない。というか、不安だ。できなかったら嫌だなと、どうしても想像してしまう。挑戦してみて、同じような結果に終わってしまったときの、不出来感・未成長感を、率直に受け止められるか、わからない。
ここ数年、それなりに頑張ろうと思っていたのは間違いなくて、けれど、手抜きしようとかサボろうとか、これくらいでよいだろうといった精神だってなくはなく、それが、いずれの「結果」に振れるかで、遡及的に確定させられてしまうであろうことが、怖くてしかたない、って言えたりするかな。そして、そんなクリティカルな一撃に耐えられるかが、わからない。さまざまな要素が重ね合わせられていたはずの、混色の「過程」が、「結果」によって、一発で、一色に塗り替えられてしまうのって。けっこう暴力的だ。防御が間に合うか心配になる。
成功譚も運不運パターン
これならうまくやれる。このやりかたなら成功する。こういう工夫が適切だ。これがコツだよ。といった判断は、ほぼすべて、運・不運の問題に過ぎない、といった言説もあるみたいである。運・不運というか、刹那的なデコボコというか、いってしまえば、近視眼的にはそう見えるだけ、って感じだ。成功法則なんておしなべて気分の問題に過ぎない、とまでいってしまうと過言になるにせよ、成功法則はぜんぶ「一時的で」「閉鎖的な」よさに過ぎない、とか言えるとところはたぶんある。それが、突きつめれば、運・不運として見做せる理由のひとつなんだとも思う。
成功や成長も、マクロな視点で見れば、ささやかな差に過ぎず、特筆に値しない。ひとりの人間からの目線でみれば、「なんかすごそう」「ちゃんとできてそう」「うまくいってそう」だったとしても、あくまでそれは、地球環境全体において「100円玉ひろった」レベルというか。現代という一時代的にはそう見えても人類史視点でみたらちゃんちゃらおかしいというか。ぼくが仕事で「うまくいった」「うまくできなかった」と一喜一憂していても、実際のところ、どうということもないのではないか?といった視点について、あらためて考えていたしだいであった。
たとえば、この前おこなったヒアリング業務での、質問事項の良し悪しや話の運びかたの上手い下手によって、なにがどれくらい変わりうるんだ、とは、問われてみればたしかに感じる。なんの影響もないとはさすがに思わない。が、これよりもっと「前」の段階にある、深く長く大きな影響をもたらす因子(仕組みや構造)のもとでなら、たった一回のヒアリングの効果がどうであったにせよ、結果として"よい"状態を残せてしまうような、堅固な構造が、構築できたりするんじゃなかろうか、って感じてしまったりする。そういう、巨視的で抜本的な問題点がもしも放置されているなら、まずそこに目を向けてみてもよい気はする。せめて、「前」のほうにそういう問題があることは気づいておいたほうがよい気もする。
別に責任の転嫁や放棄をしたいわけではない。引き受けられる範囲は引き受けたい。が、より「前」のほうで、失敗感ばっかり呼び覚ますファクターが固定されてしまっているのなら、その俎上で一喜一憂していても、しかたないんじゃないか、とは思ったのだった。そして、そういった事実があるのなら、そのことには、やっぱり気づいておいたほうがよい。「失敗っぽく見える結果」が発生しやすい空間の中で、頑張って突撃し、失敗したー、と、ひとりで、壁に跳ね返されてダメージを喰らっていても、時間の無駄である。精神力も体力も削られるが、浪費だろう。責任感で「ひとりずもう」に疑いの目を向けられなくなるような事態は避けたい。