世界は称賛に値する

日記を書きます

幻想漏洩の9月13日水曜日

洩れ出る世界観

ほとんど同じことを言っていたとしても細かな言い回しの違いから偏見や先入観の凹凸がうかがえる。意識のいびつさが洩れ出るというか。順序の選びかた、前提の置きかた、ドヤ顔感や当たり前感、露骨な詳細の説明、謎の断言、などから、ある意味で「世界観」が顕現していく。

小説を読んでいるときにもときどき出くわす。特に嫌いな描写に出会ったときには意識させられる。なんというか、ぼくはここについて詳しく語ることができるぜ、という意識が透けて見える言い回しが、たいていはどこかにある。悪いという話ではない。その対象やしつこさが、作家の個性に繋がっているのだとも思う。そして、好き嫌いにも影響しがちだ。

趣味に合わない小説の文章がたまにあるが、こういった小さな言い回しからこぼれ落ちる雰囲気に、忌避感を覚えているんじゃないかと感じる。ぜんぜん趣味じゃない"言い張り"がたしかにある。そんなところの詳しい説明は別にいらんのだけどと思わされることもある。逆に、こうしてぼくの書いている文章も、なんでそんなルートを通して書くんだ、と思われていることがあるだろう。話題そのものが合う合わないとは別に、カメラワーク、近づきかた、距離感、目配せ、しつこさとあっさりさ、などが、肌に合わない、ということはあるんだと思う。

否定文の使われかたがキモのひとつなのでは、と書いているうちに気づいた。「ある」可能性を意識的に潰してそこにないことをわざわざ示す、あるいは、そこにあるという幻想を抱きかねないものを明確に否定しておく、という手法は、世界観にダイレクトに繋がっていそうだと思える。理想や夢想を潰そうとする意志がそこに絡んでこないわけがない。