世界は称賛に値する

日記を書きます

権限分析の9月6日水曜日

お膳立て

業務で、彼らは今後こういうことを検討しているようです、と報告した際、じゃあそのお膳立てをちゃんと進めておきなよー、と(ぼくから見たら)やや無茶な方針を投げられた。少し前に、仕事に対する苦痛を感じていた時期があったが(最近はすこし落ち着いた)、このあたりに対してだったなと思い出した。仕込みや手回しのやりかたなんてわからんわーいと思っていた。職場が変わったばかりでわかるわけないじゃんと思った。今回も、急にそんなこと言われてもな、とは思った。そんなのひとによるし、空間にもよるし、タイミングにもよる。もちろん、ひととなりも、文化圏も、以前よりはわかるようになった。いくらかはうまく動けるようになっただろう。なのでまあ頑張れってことなんすかね〜。

とか考えているうちに、このひとの考えかたはこう、それを受けてこのひとの考えはこうなるだろうから、ここをこう固めておけばいいんじゃない?と助言をもらった。「こやつはそのへん察しが悪いからなあ」と思うようになったのか、「うちの会社の空気感くらい説明しておかないとさすがにわからんか」と理解したのか、「投げっぱなしでフォローしないのは上司の振る舞いとしてよくない」とさすがに考えるようになったのか、知らんが、助かった。

同時に思ったのは、昔と今ではお膳立ての意味を履き違えていたな、ということだった。それこそ「文化圏の違い」を理解したと言ってもよい。職場が変わる前と変わったあとで、同じ"お膳立て"でも内状に違いがあった。

昔の"お膳立て"は、言ってしまえば、おだてて、なだめて、報告事項も角を丸めて聞こえをよくし、誤魔化すような振る舞いだった。悪くいえばペテン的だった。影響範囲が限られていたためかなとは思う。案件の重要性も低かったし。致命的な結果に繋がるような判断があまりなかった。要するに低リスクだった。目指すところがそんなゆるい中での上手な立ち回りになっていたため、揉めごとだけを避けるアクションが横行していたんだと思う。比べると今は違う。もう少しリスクを考えたほうがよい事態が増えた。結果として、誤魔化そうという意識も減った。なくはないけど、あんまり使わない。使わないほうがよいと学ぶ機会も多かった。

そのぶん、筋を通す、という背景が増えた。ここが前回の混乱のときには理解できていなかったんだと思う。権限、上司、部署、職種、規定。誰が誰に報告するのか。そこにズレはないか。どういう理由で、どういう形で、いつ報告するのか。どの段階で伝えるか。古臭いとか形式主義的とかタテマエ論的とかそのあたりの問題はありつつだけど、これまであまり真面目に取りあうことのない考えかただった。組織というものの解像度が高まった気にはなった。いま味わっている理屈がほかの会社で通用するかは知らんけど、誰に権限があるか(好き勝手に決められるわけじゃないこと、および、その責任の所在について)にフォーカスする意識構造を育てられたことは、まあよかったんじゃないかと思っている。

という、"言いくるめ"と"説得"の違いを会得したつもりの昨今なのだった。とはいえ、なんだかんだで今度はそのふたつの混ぜ合わせと、その割合があらためて問われたりもするから、わけわからん、ってなる機会はぜんぜん減っていない。思ったより言いくるめ要素が多いケースもあるし。その見極めが難しい。権限、リスク、責任、の社内の在りかたについてはまだ理解がおよんでない範囲がたぶんあるな。