世界は称賛に値する

日記を書きます

世界目処の9月23日土曜日

世界

『さよならの言い方なんて知らない』の8巻を少し前に読んで、「生きる意味」に向けた問いかけ(なぜ生きるのか・なんのために生きるのか)に、安直な裁定を下してしまっているの、ほんとうによくない気がするなあ、と反省したが、ブギーポップシリーズ最新刊『ブギーポップは呪われる』を読んで、「世界」にも同じことをしているなと反省した。だいぶ"わかったつもり"になっている。こんなところだろうと軽々しく裁定を下し、距離すら置いてしまっている(しばらくは放置でよいかと思って油断している)。

いろいろなひとが、たとえば身近なひとが、あるいは権威のあるひとが、なにやら「世界」に対して言っていたことを間に受けて、完全無欠の唯一解は出せないにせよ、だいたいここからここまでの範囲に答えがあるんでしょう、といった目処はつけてしまっている。少なくとも"あたり"はつけられると感じていると思う。

ひとつの例として「セカイ系」に関する言論などが思い浮かんだ。セカイ系という題材を取りあげて、ここでは「世界」というものがこういうふうに考えられてるけれど〜、なんてふうに語られているのを見てきた。が、そういったときの「世界」もまた、しょせんは一案に過ぎないというか、その問題に沿うように形成されたひとつの例示的な定義に過ぎない。

さんざっぱら「世界」についての言論を耳にしてきたことで、その回数だけを頼りに、理解できている広さや深さを勝手に決めつけてしまっている。そういう言いかたもできる気はする。いっぱい聞いたので幅広く理解できている、たくさん聞いたから奥深く理解できている、と、謎の楽観を抱き、さらには悦に浸っていそうな気配すらある。

目処

目処ならつけられる、当たりならつけられる、といったところに、なんというか、謎の光明を見すぎなんじゃないのと思った。死ぬほど絡み合っていて、人間が理解しきれるかもわからないような問題に出くわしたときに、その難問に対し、"完全な回答"を返すことはたしかに無理そうだと思ったとしても、同じくらいの勢いで、答えはあっちのほうなんじゃないか、このあたりに答えがあるみたいだよ、と指さすくらいはできそうだと思っているなと気がついたのだった。そのくらいなら"できる"と感じてしまいそうだし、それが「できる」のであればつまり「この問題に対応できる」のだ、と認識も繋げてしまいそうである。

こういったところにある傲慢さというか、極めて安易な繋げかたとそれを許す甘えというか、期待にただ踊らされてしまっている楽観的な精神って、あやうそうだな、と思った次第であった。もちろんほんとうに「目処」とか「範囲」で答えるしかない問題だってあるんだとは思う。数学の問題で解として一定の範囲を示す「式」しか返せないような問いがあるのと同じで、それと似たような問題が、この具体的な世界にもあるんだろう。だからって、それを無邪気に転用して、答えがありそうなほうを"指さし"できていれば答えたことになるよ、と学習するのは違うじゃん、と思った今回であった。

「生きる意味」「世界」に安易な目を向けていることがこの文章の起点だったのだけど、むしろ、そういう目を向けることを可能にしている「目処」や「あたり」という概念が怖くなってきた。

ブギーポップは呪われる (電撃文庫)