世界は称賛に値する

日記を書きます

20230805 読書の話

一文飛ばしでも読める

あるひとつのまとまった文章を読むときに、たとえ"一文飛ばし"という枷を付けられて最後まで読んだとしても、文意や論旨を「ある程度つかめた」と感じそうである。むしろ「普通に読めてしまったな〜」とすら思いかねない。文章の中には、なんというか、慣性や惰性をコントロールするための、要するに"軌道修正"のための、ささやかな言い回しがたくさん含まれているため、それらが少し消し飛ばされたくらいでは、変なところに着地するところまではいかないんだと思う。思い違いがちょっとあったくらいでは「読めていない」ところまでいかないんだとも思う。おおまかな流れには乗れるというか。

読み飛ばし癖

文章を読むとき、デジタルメディアだと紙と比べて読み飛ばしが増える、という実験結果の話を聞いた。誰にでも通ずる理屈なのかはむろん不明だ。が、なんにせよ、自分の場合はもとから読み飛ばしがちなところがあるので、あんまり関係ないかなとは思った。いやもちろん媒体の影響によって読み飛ばし癖がさらに悪化!ってなっても困るんだけど。あと、読み飛ばし癖については(読み飛ばしてもたいして変わらんだろ、と無意識に軽く見ているところについては)、若い頃の学問的なものに対する接しかたが甘っちょろかったせいだと思っており(サボっていたせいで重要だと思うための肌感覚を取りこぼしてしまった)、けれどいまは、学問性や知性こそが世界を少しずつ良くしてくれるものなのでは、と感じているため、正直反省している。改善したい。一文一文を軽んじないよう心がけてはいる。

読みを尊ぶ

ひとつひとつの丁寧なことばの積み重ねを尊ぶことにより得られるもの、そうした知的に誠実な振る舞いによってしか辿り着けない境地があること、が、うまく理解できなかった。腑に落ちる機会が得られなかった。印象論くらいの漠然とした理解だけでなんとかなるっしょと軽々しく思ってしまっていたんだよな〜。甘かった。後悔している。数学を無駄に嫌っていたことも関係していそうな気はする。という意味で言えば、国語を舐めていたことも関係してきそうだが。あとは、軽い読み物ばっかり読んでいたせいもあるかなあ。このあたりの振る舞いを、昔と比べれば、多少は軌道修正したつもりだ。

丁寧な読み

オモコロの「みくのしん氏が読書に挑戦する記事」の最新回を読んだ。宮沢賢治『オツベルと象』に挑戦する回だ。ことばを丁寧に読むことのよさに目が向いたのはこの記事の影響である。あいかわらずよい企画だ。初回の太宰治『走れメロス』のときから変わることなくおもしろい。企画の性質上、無限には続けられなさそうだけど、まあ、できるところまでは続けてくれたら嬉しいなとは思う。少しやりかたを変えて続けてくれてもよい。それくらいの"素敵な読み"をみくのしん氏は最初から見せてくれている。典型的な言い回しになってしまうが、『走れメロス』も『オツベルと象』もこんなにおもしろいと思っていなかった。鮮やかな景色を見せてもらえて嬉しかった。楽天koboの梶井基次郎『檸檬』回も買ってしまった。

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