世界は称賛に値する

日記を書きます

20230806 雑味の話

雑記

書こうと思っていた話題がどうしても思い出せずに手を止めていたのだけど、手を止めるくらいならさっさと諦めて、思い出せる範囲での「素敵だったもの」リストアップでもしてればいいんじゃないのと思った。手を止めている時間と思い出せる確率ってかならずしも関連しない。ほかのことから不意に繋がることもある。手を止めて沈思黙考するアクションが結果的に価値を持つケースって統計的には少なそうだ。目に見える数が少ないことを根拠に排除したら、実はそれがすべてを支えている大黒柱で、崩壊の足音が聞こえ始めるパターンはありそうだけど。

日記執筆時、そこそこ大きな塊の思案を描いて、そこで終わってしまうことが多いな。満足するからということではなく単に時間が足りなくなって終わる。が、ほどほどに小さい思索を書きたいときもある。そこまで細かくはない半端な思索が糞詰まりしていることもある。

これこれが好きだ、って文章をはじめに置いたら、そのあとに続く性質や状態を伝える言葉は ぜんぶ好意的な目線で語っていることになるんじゃないかと思う。そういう雰囲気をまとった姿で聞こえそうだ。逆に「嫌いだ」から話を始めたら印象は逆になる。みかんが好きだ。黄色い。って書いたら黄色いを肯定する空気が出るだろう。リンゴが嫌いだ。赤い。ってかいたら逆になる。わりと楽しいコントロール要素だなとは思った。

ラムネ菓子が好きなのだが、近場で買えるところがなくなってしまい、最近は食べる機会が減った。ということに気づいて、衝動的に通販で買ってしまった。思った以上に幸せな気持ちで口に放りこんだ。最近聴いたPodcast「Book Club」の潰瘍性大腸炎の回で、好きなものを食べられたときの満足感と世界に受け入れられた(肯定された)感覚の共通性の話が出ていて、なるほど!と思った。それを思い出した。

ちくまプリマー新書『客観性の落とし穴』のことを調べていて出会ったPodcastの「Book Club」だったけど、好みのブックセレクションだったため、しばらく継続して聴いてみようかなと思っている。以前は二人組で話をされていたようである。遡ってみたらふたりのときの会話もおもしろかった。

Podcast「ブックカタリスト」で、学習、理解、記憶における、アナロジー(比喩)を活用することの重大性の話を聴いた。新たに出会った情報を、これまでの記憶の中の知識に照らし合わせて、半ば強制的に長期記憶に紐づけるやりかただと言ってよい。自分の文章を見ていると比喩をあんまり使っていないなと思う。無自覚に使用率が低い。特に(意識的な)苦手意識によるものなどではないので、改められないか?と考えた。

隠したいことや後ろめたいことがあるときには、ことばが変になる。早口になるとか、話を飛ばそうとするとか、関係ないことに触れすぎるとか、見栄えのよい専門用語で有耶無耶にしようとするとか、勝手に断言するとかだ。プレゼンテーション資料を作っているときに主張とデータの整合が取れていないことに気づいているときなどにやりがちかな。この手のうさんくささを、異世界転生におけるゲーム用語に感じることがある。挙動不審な文章というか。そして、そういところに引っかかって、読みにくい文章だ、と感じていることがありそう。

誤魔化すみたいにちょっとした説明を付け足すくらいなら根拠もなく強く断言してくれたほうがよい、とも思うし、馬鹿みたいに断言しているのは許せないのでせめて自分なりのロジックで説明を試みるくらいはしてくれ、とも思う。どちらなんだとも思うが、そもそもの主張のアラの酷さ、あるいは、築いてみせた説明のクオリティによって、境界線が変わるのかな〜。