世界は称賛に値する

日記を書きます

聞いたし話した4/21金

相談と愚痴

相談と愚痴を織り交ぜた話を聞いてもらうような機会があった。ため息を聞いてもらうような場だったと言える。非常にありがたかった。事態に見つめなおすための情報もいろいろと得ることができて、状況把握も、イメージ整理も、そして、それらのあいだにあった齟齬の修正も、いくらかは進められたんじゃないかと思う。

否定的なことばによって自己評価を下げられ「間違っているのは自分なのでは」と感じてしまうところから喰らっているダメージと、威圧的な態度に対する怖れによって喰らっているダメージを、混ぜて考えてしまっていたみたいだ、ということにも改めて気づけた。

客観的に見て、というか、はたから見て、上位評価者の正当性はそれなりにあやしい、と見受けられる状況だと示してもらえたのもよかった。経験不足的な問題もあって、ここは、頑張って自分で判断してみせたところで、うまく信じられないところだったと思う。ぼくが合っていて相手が合っていない、と判定し信じきるための根拠は積み上げられなかったと思う。ひとから聞けたのであればほどほどには信憑性があるし(それも絶対に正しいといえるものでは当然ないけれど)、類似の事例にまつわるエピソードなんかもあれば、さらなる補強もできる。

元気づけのことば

ものすごい気落ちしたタイミングで、ひとに話を聞いてもらって、助言やフォローをいただくことで、認識が大きく変わった――驚くほど気がラクになった、という経験、これまであんまりなかったかもしれないなあ、とも思った。まったくなかったとは言わないけれど、ここまで濃密なやつはなかった気がする。

元気づけについての強くて深い経験が得られたんじゃないかと思う。この強烈な気持ちの転換をもっと早くに経験しておきたかったな~、と思ったりした。これくらいの濃密な経験すらなかった人間が、ひとさまを元気づけることばなんて言ってよかったんだろうか……、みたいなことを今は思ってしまう気分だからだ。特に労せずなにかをこなせていた人間が、軽々しく、ひとの苦しみに助言するような様って、おそろしい。そのあたりのことをどうしても考えてしまうというか、これまでを振り返って少し反省してしまう。

もちろん厳密にいえば、このひとはこういった経験を積んでいるのでこういうことばを吐くだけの正当性を持っております、なんてことは言えないはずなのだけど(どうやってそれを計るつもりなんだ、的な話にもなるし)、しかし、そこに劇的なありがたみを憶えている今は、なんとなく、そのあたりの基準を厳しめに考えてしまうのであった。資格とか説得力とかのことまで視界に収めて考えたくなってしまう。

冷ための解釈

いわゆる暖かさとか優しさとかいったものが驚くほど解釈できなくなっていた、ということに今回はけっこう衝撃を受けたかな~。冷たい目だと感じていたのに実はまったくそうではなかった、という驚きがあった。話を聞きながら、え、あ、そうなのか……、ってなった。以前ならもう少し、楽観的かつ恣意的に、そういった前向きな可能性のことも踏まえながら考えられていたと思うんだよな~。それが今回は機能せず、冷たさばっかり幻視していた。恐怖か自己否定か、なにがここの歯車を狂わせていたのかわからないが、そういうダメージの喰らいかたもあるんだな、とは学んだ。

ちなみにこのあたりはアドラー心理学の管轄下というイメージがある。気の持ちようというか適切なマインドセットが示されていた印象だ。