理を憶えたがる12月2日金曜日

言葉を身近にする習慣

日記を再開するときに思っていたことの一つに、以前の文章を書く習慣があったときのほうがもうちょっと楽しかったんではないか、というものがあった。確信できるほどのはっきりした実感でもなく、紐付けられる現象や根拠もなく、しかも、こういうふうに思いたい(こういったことを思う人間でありたい)という欲求もかなりありそうだったので、はなはだあやしい着想ではあったのだけど、いやでもここまで何度も思ってるならほんとうにそうなんじゃないか?と思わされるくらいには、そう感じる場面が多かった。そして、実際に最近また日記を書き始めてみて、やはり言語化・文章化する習慣があると、より楽しい感じかもね、とは思った。ちょっと日常に対する気分が変わった感覚はあるのだった。やっぱり変わったじゃん、ということを根拠に、遡及する形で、だからつまり書かなくなっていたあいだは少し楽しくなかったんだろう、と結論することも、まあできる(まあできる程度ですけど、でも、楽しくなったんだから別によい)。

Audibleを試しつつ

Audibleでの読書を試す前、不安要素はふたつあった。つまり、読書を音や声で行なったときに起きそうな問題をふたつほど想像していた。ひとつは「小説の人物などの”名前”(固有名詞)を憶えられるのだろうか」で、もうひとつは「学術書や実用書で語られる”論理”を想像しながら読めるんだろうか」であった。名前を憶える問題のほうは、名前を記憶するときに「字面」で認識しているんじゃないか、という想定があり、それが働かなくなると、つまり「字面」じゃなくて「音」で記憶する事態になると、記憶しづらくなったりするんじゃないの、という疑問だった。ふだん接する名前に対しては「文字の印象」を援用させることで「その名前のイメージ」を固着させているところがある。だから電話などで名前の音だけを聞かされても憶えられなかったりする。そのあたりの経験から、音だけだと危うそうだ、と想像していたのだった。でも今回、Audibleで『三体』を読んでみて(聴いてみて)、そうでもなさそうな事例に遭遇できた。中国語の名前(の音)がなんとなく憶えやすかったのだ。文字列をただ見るよりは認識しやすくなっていた。ただ、この本、過去に少しだけ読んでいて、そのときに一度、目で認識もしてはいたはずなので、その記憶が残っていて影響した、という可能性はある。まあでも、思ったより音で認識する名前もアリだな、とは思えた。

論理をつみあげる読書

哲学書なんかでは理屈をひとつずつ丁寧に積み上げていく読みかたをすることがある。根拠と理解と納得を順番に見せながら構造の図面を引いていく。この読みかたがAudible(耳での読書)で可能かどうかは、まだ不安だ。これは「記憶できるか」や「想像できるか」といった能力の問題というよりは、頭の中で積み上げる前に次の文章が読み上げられてしまいそう(どんどん先に進んでしまって理解が追いつかなそう)という想像による怖れだ。シンプルに考えて、難解な哲学書の文章を次々に読み上げられていったら、理解が追いつかなくなるのは、当然だろう。いやいや次の文章が来るのまだ早いよ、そことここのあいだの因果が埋められてないよ、論理飛躍にしか見えてないよ、ってなるのはあっさり想像できる。簡単にシミュレートできる光景だった。理解速度を超えてくる言葉の奔流なんていくらでも想定可能である。止まらないならなおさらだ。速度を調整したり適宜止めたり少し巻き戻したりをちゃんと使えばよいというだけの話かもである。