世界は称賛に値する

日記を書きます

言葉を「××」の一部であると踏まえて見せる

▼▼小説の中の一文だ、と認識して文章に触れるのと、詩の中の一文だ、って認識の上で文章に触れるのと、コントやギャグの中の一文だ、って思いながら文章に触れるのと、日記の中の一文だ、って理解しつつ文章に触れるのとでは、読みかたが意外と変質すると思う。同じ小説という認識の中あっても、ミステリやSF、という下位ジャンルで、また少し変質するだろう。強く意識せぬまま抱えている文脈によって文章の感触は変わる。称賛文章と批難文章の中で「同一の言葉の並び」が混じっていても違って聞こえそうだ。
▼▼文章類型Aであることを意識してある文章に触れることで当該の一文が違った風味を帯びてくれる、と言えるならば、既存の文章類型とは少し違った類型B、を、勝手に開発してみせたりすることで──ぜんぜん異質なものではないにせよ新たな調理で珍しい新鮮味を味わわせてみることで、言葉に、違う聞こえかた──新しい響き、を帯びさせるよう拡張できたりもする? って考えてみた。▼▼聞き慣れぬ雰囲気の芸術形態などを捏造し無理強いしてみせることで、馴染みのないあまり見せられてなかった言葉の装い、を、人に見せつけやすくなる、ことくらいは、まあありそうな気もする。
▼▼言葉の在りかたや新規芸術を切り拓いてみせて、新たな言葉や文章の芸術、領域を見せる、のではなくて、言葉に触れさせる前段階での観念の調整によって、言葉を新しく見せられないかな? 実質ではなく形から入る、って戦いかたは、言語まわりだとかなり有効に働いてくれちゃったりするのでは? なんて雰囲気で頭が働いたのだった。