世界は称賛に値する

日記を書きます

1月16日ワンダリング

日記フォーカス

日記にフォーカスした語り口やコミュニティを見つけては興味を持っていることが多々ある。ただ、自分がこうして書いている文章を日記と呼んでいいかについてはすこしだけ迷う。日記と呼びたがってはいるけど実際のところは思考ログじゃんとは思わないでもないのだ。むろん、日記に「こういうものが書かれなければならない」という制限はないと思ってはいるし、むしろこういう縛りの甘さこそが日記の良さだろうと思ってもいるのだけど、そうではないひともいるんではないかとは想像する。日記と思考ログはやや違うんじゃないの、という思想や疑問を持つひとはいてもよいかと思う。思考ログだけじゃあ日記とは言いがたい、わざわざ「日」の文字を冠しているのだからその日にあった出来事を振り返れるような記載が欲しい、といった観点は想像できる。まあでも、頭の中の出来事を「その日の出来事」にふくめないのもおかしな話だけど……。

出来事特権

前述したようなツッコミを想像をしてしまうのは、自分が「頭の外側で起きたその日の具体的な出来事」に特権的な価値を見ているせいだ。書いていてそのあたりが気になってきた。内部から出せたものと、外部から受け取ったもの、前者ばかりに着目しているのはあまりよくなさそう、ということも考えたりはする。理由としては、偏ってるのはよくなさそう、視野が狭くなりそう/世界が拡がらなさそう、とかが思いつくかな。もう一個くらいひねった理由をさっきまで思いついていた気もするけど、忘れてしまった。そして、あくまで「日記」という名目にしっかりした定義を設けるなら、の話であって、思考ログ自体はぜんぜん問題ないよ、とも思う。そのあたりにツッコみ始めると、そもそもこれは「日記と評して書くときに、日記という言葉に見合う正しさを定め、守るかどうか(そこに正しさを持ち出すことの良し悪し)、についての思想の話になってきてしまうけれど。

自由さをくれるものを擁護

日記という言葉を大切そうにしているのはなんなの、とは思わないでもない。意味も価値も見出して、なかなか特権的にあつかっている。とはいえ、そこに自由さが薫っているのは確かだと思うし、素敵だ。なんなのとは言いつつ惚れるのもわかる。縛られるのが嫌なので好き勝手させてくれる概念のもとでダラダラと遊んでいる(好き勝手に遊びたいからそれを許容してくれそうなものを擁護している)だけ、という状態なのではないか、そうだったら微妙なのでは、とも思ったりはしたけれど、現世の社会や人生における「縛り」が適量だと言える理由もないし、普段から余計な制限を背負わされている可能性もぜんぜんあるわけで、概念まわりで自由さを見つけだしてそれを褒めそやすのも別にいいじゃん、とは思う。そうして人生要素のバリエーションを拡げるのもまたアリなんじゃないの、とは思うのだった。