世界は称賛に値する

日記を書きます

1月15日リビング

知っている世の中

ある物事がだいたいどういうものであるかの知識はある。ある状況がどういうことになるかの知識もあるかと思う。人生経験から、常識、教訓、ことわざ、あるある、といった形で抽出してきている。ただたまに、逆らいたくなるような想定外や例外に出会うこともあって、困惑したり反省したりする。例外もちゃんと想定しておかないとマズいなと思わされる。というかそもそも、普通や例外という認識自体が誤りだったんじゃないかという疑いまで持てたりする。これまで持っていた思い込みに気づいて、偏見や先入観を持っていたことのあやうさを理解して、ごめんなさいと言えることがある。そしてまた、そういった認識や思考の「転回」は楽しい。新鮮な驚きが快感だ。言葉にしておきたくもなる(日記に書きたくなる)。

自動問い直し

見聞きした情報から着想することは多いのだけど、そのうちのかなりの割合が、常識的意見、一般論、教訓や箴言、ことわざとかあるあるとかだ。ほんとうにこのあたりを見かけるたびに思考を駆動させている。こういうものに対する問い直しばかり日記に書いてしまっている。なにかが話題になっていたり、問題提起を見かけたりしたときに、だいたいそれに付随する「AってBだ」という知識を思い出し、それを問い直そうとするところから叙述を始める。そういうアプローチが思考の手癖になっている。別に問題あるフローというわけでもないのだけど、例えば囲碁の格言でいう「手拍子で打つことなかれ」、相手の一手に釣られるようにして脊髄反射的に応答してしまうのはよくない、というのと同じように、手癖はよくないんじゃないかと思う。自動化された思考フローってそもそも「自動化」されている時点で弱点を抱えているよとは思ってしまう。