世界は称賛に値する

日記を書きます

訂正文の木曜日 6/1

訂正文

口頭で話しているとき、途中で、あ、間違った、と思っても、言わなかったことにはできない。遡って最初からやり直すことはできない。誤りに言及し、訂正文をはさむことになる。Aです、いや違う、Aじゃないですね、Bでした、失礼しました、Bでお願いします、といったふうに言葉を繋げる必要が出てくる。逆に、書き文字なら、やり直せる。むろんケースバイケースというか、リアルタイムで相手に届いてしまう場合もあるから、そういったときは別だろうけれど、割合的には、誰かに見せる前に直せる場合のほうが多いと思う。つまり、「いや」とか「間違った」といった単語をわざわざ使わなくてもたいていは成立させられる。言わなかったことにできる。叙述したとき、こういった「訂正のお知らせ」を書くかどうか、稀に悩む。「いやこれ嘘だな~」「書いているうちにこう思えてきた」「と書いてはみたものの」とか書いてみせるたびに、なんかこう、演技っぽいな、って思ってしまって、気にすることがある。書き文字のときに「いや」って単語を存在させる必要ってあるのか?と思ってしまう。ちなみに「というか」あたりもあやしい感じ。

途中までは、誤った理屈をあえて描いてみせ、後半、それを足掛かりに、しっかりと要点をとらえた話をしてみせる、という展開もあると思うし、そのほうがわかりやすいケースも当然あると思うので、そういった狙いがあるならよいのだけど、そうではなく、書いているさなか、急に全体像が見えてきて、あるいは細部が見えてきて、勘違いに気づける、ってこともまた、よくある。そのときに、認識と文章を整理し直して、最初から書くか、ってことは、いちおう考える。「勘違い中の思考プロセス」「勘違いに気づけたきっかけ」「勘違いと新たな理解の差」などを見せつけられることを考えれば、別に書き直さなくてもよいじゃんとは思うし、むしろ、そこにこそ価値があるのでは、というとらえかたも可能だとは思う。思うのだけど、無駄話をはさんでいないわかりやすい解説(説明のためのプレゼンテーションに変な余談を混ぜないでください)が求められることもあると思うので、なんか、そういう意味での「やり直し」も、アリといえばアリだよねえ、とか思ってしまうのだった。

その文章がどういった場で求められているものなのか、って話ではある。そして、それが日記であるならば、まあやはり、訂正するプロセスまでしっかり描いたものが求められている、って認識のほうがいくらかよいんじゃないかな、とは思った。それが日記としての正解、良さ、目的、とかでもないけれど。シンプルに、自分の好きなもの、読みたいもの、って基準で考えたら、そうなる。あとまあ、「演技っぽさが気になる」のと「プレゼンテーションとして内容が整理されているほうがよいだろうと考えてしまう」のは、別なので、論点混ざってますよ、とも思えてきた。