世界は称賛に値する

日記を書きます

冗談半分

 文章を違う雰囲気で書こうとしている最近である。とわざわざ咎めて(使いかたおかしい)おかないと、精神に無駄な圧力がかかるくらい、要するにうまく正当化できなくて、わーってなる。あえていろいろやったので、ここまでで七回から九回くらいは「普段だったら絶対こんな書き方しない……」って思った。
 まあこういうのも楽しめるとよい。縛るけど縛っていることも冗談半分っていうか。冗談半分ですべてやっている「ことにもできる」みたいな態度は、嫌いじゃない。悪用すると危険そうだし、見誤ると問題のある線を越えてしまいそうなので、みんな冗談半分でいつもいなさい、っていうことは言えないけど、っていうか言えなすぎるので、普段だったらこの言説は全部消して書き直していると思う。
 まあよしとしよう。
 冗談半分でやってくらいがいいのさ、って言う言葉を言った時に、ああそれそれ、それのこと言ってるのさ、それってよくない? って思える受け止められかたと、いやいやそうじゃなくてそういう意味じゃなくていや確かにそう聞こえたかもだけどさー、って思えてしまう受け止められかたと、どちらもあると思う。単語の微妙な違いを駆使してここをうまく調整しようとすることが、文章書きにおいては非常によくあるけど、えーと、実際問題、いま書いてて、これって文章書きの問題なのかしら? って思い始めてきたわけだけど、どうなんだろう。
 冗談半分って言葉が、相手の思考や生活に、組み込まれたときに、ああそういう組み込みかたじゃないんだー、って思えるような時、なんていうか、それは、言葉の汲み取られかたの問題なのかなあ? って思うのだった。
 じゃあなんなのさ、って考えると、少し言葉に窮するのだが、まあいまのところの手応えで話すなら、むしろ、こう、相手の普段の生活態度を見てて、この言葉を言ったらこういう受け止められかた、汲み取られかた、組み込まれかた、をするだろうなあ、っていうことに対する、想像力の問題じゃないかなあ? とか、そんなことを思うのだ。というかいまちょっと思ったのだった。思いつきなので検証はしてないけど、書いてて、ああ違うなあこうじゃないなあむしろこういう感じだよなあ、と思う時って、検証とかあんまり必要としないくらい──というかまあ、最初の間違ってたーって思ってしまった案よりは、明らかに精度が高いものだったりする、気はする、が……、えーと、書いてて、根拠がわけわからんよキミイ、ってなってきたのでこの話はこのあたりで中断する。
 あれ、長文ではないですか。ユニクロの人が書いた本を読み終わった話を書こうとしていたはずなのだが……。ユニクロの話はおもしろかった。おもしろかったとか言いすぎなのでおもしろかったということに意味があるのかわからない、という言葉遊びは思いつけたが、おもしろいもつまらないも書かないでおもしろいが伝わるわけもなく、いやおもしろいって書かないで「おもしろかったが伝わるように書けよ」という意見も想像は可能なのだけど、えーと、それをする意味がわからない。いや嘘か。技術向上のためにはよいな。いまは目指してないのかな。若干目指してるよなー。ならどうしましょう。
 うう、この感覚は新しいというか懐かしいな(どっちだ)。
 いや懐かしいのだ。物凄く昔、何も制限を加えずに、ただし、今読み直すと、いや論旨とか意味分からないし……、って思ってしまうような、文章を書いていたことがあり、だけどその頃、書いてるだけで楽しくて、キーボードを打つって行為が単純にすごく快感で、その時の感触が、いますごく蘇っている。これは、なんか、やってみてよかった。
 あとは、最近育ててきたもろもろの能力と巧くコラボさせよ、ってところだな。それくらいの能力はあると信じたいね。信じたいね、って言う時、たいていもう信じてるところは結構好きだ。自分的に。