世界は称賛に値する

日記を書きます

読みやすさだけを目指した文章、はまだ書けてない

 読みやすさをもうちょっと意識してみてもよいかな、と考えていた。読みやすさよりは論理性を意識している。と言うのは正確ではないか。けど、飛躍しないように慎重になりすぎてて、言い回しの軽やかさ、と見せ掛けた冗長性とか雰囲気とかで、論理性が犠牲になるよりは、言い回しが堅苦しくても、論理的整合性を優先していると思う。優先したほうがよい、と思っている。ようなのだけど、なんでなんだろう。論理的整合性にといて均整が取れていると、何かよいことあるのか? って思ったけど、論理的整合性ってなんだろう、から始まっているのだから、完璧っぽいものをまず見てみて学ぼう、書けるようになろう、と思うのは妥当は判断か。と、まあ、考えていたりした。ここまで、結構運指だけに頼らず書けている。勢いと論理性をギリギリ調整しつつ書けている。読み返したら絶望するくらい雑になっている可能性はもちろんある。あるけど、書きながら「あーだめだー」と思うこともあるので、それは避けられている。避けられていると判断できている。
 でも、読みやすさを重視してみようぜ、は全然実践できていないなあ。書いていたら忘れた。
 読みやすさをほんとうに死ぬほど考えて、読みやすさだけを基準にして文章を書いたら、自分はいったい、どういうものを書くんだろう、というのは結構最近考えた。読みやすさって何やねん、と問うてみた、と言ってもよい。結論としては、まあ一概には言えませんよねえ、ではあった。なんていうか、いろいろなひとが「読みやすい文章」についてはいろいろ言っていて、つまり誰もが一家言あるっぽくて、しかも、情報収集が趣味というか好きなところがあるので、記憶の中にもごろごろ転がっていて、そのあたりをもろもろ意識したら、矛盾とか整理できないところとかいろいろ出てきてしまったのだった。
 改行が多いほうが読みやすい、みたいなのは確かにある。
 けど、改行ばっかりでは駄目っていう人もいる。
 視認性と、意味によるかたまりで構成することによる全体像の把握しやすさ、って、たとえば矛盾する、っていうよりは、両立させるための調整が面倒なのだよなー、なんて思うのだ。
 改行の多さってこのあたりの点で、こうするとよい、って言えなくなる。読み手の読み方に依存するからだ。あと、単に、文章のかたまりになんか魅了されます、みたいな自分のような人間もいるしなー、って思ったりもする。という趣味嗜好だって気分次第で変化したりもする。文章内容によっても向き不向きが変わるだろう。このあたりも普通のことだけど、まあ、いろいろと踏まえていくなら、一顧に値することであろう。
 これまで書いていたものとは違うものを書けるようになってみよう、という狙いにより周辺の問題を考えてみたわけだけど、まあ、答えは出ていない。仮説や仮組みでどうにか動いてみよう、とか考えてないところを見るに、現状では答えを出す気がないとも言えるだろう。
 読んだ本とか、普通に今日あったこととかも書こうと思ったのだけど、思った以上に長文になってきているので終わろうと思った。だらだら書くのもよいものだ、と少し思い始めている。いや、嘘だなー。全然納得いってません。美しくないよー、って叫んでる部分がありますなあ。読み返すのが苦々しいものなー。でもまあいいか。うーん、でも、この反動のようなものを、巧く切り返すような動きを見つけないと、耐えられなくなってやめてしまうかもなー。納得させる理屈を考えないと。光に繋がる道筋を見つけないと。って感じかなあ。結局自分が求めているものがよくわからない、っていうのがあるのかなあ。この方向の先にある能力は欲しいっぽいもんなあ。やり方が駄目なのかな。ただ自分の感性に逆らっとけばいいってわけでもないか……。もうちょっと試行錯誤で。
 全然違う話も宣言気味に書いておくが、明日も頑張ろう。試験勉強もして、仕事も極限まで頑張ろうと思う。もうちょっと格好良いものを目指してもよい、と自分に言っておく。