世界は称賛に値する

日記を書きます

更新嬉々雑記

▼▼言葉を書く、という行動は、好き、というか、性に合ってるんだろう、とは思う。結局特に飽きないし。
▼▼敬愛する日記が更新されて読めると、幸せだー、好きだー、と毎回書きたくなる。一回素直に書いておかねば、とも思った。単純すぎて書かないほうがよい、書いても満足できない、というふうに思考が回ることは多々あるけど、だからって一回も書かない、というのにも、違和が出る。一回をいつ出すか、一回をいつなら出す気分になれるか。一回かどうかなんて憶えていられなくない? とは頻繁に考える。
▼▼重荷にならないような言葉選びと伝えかたで、しかし、しっかり伝わる、といった状況や情景や、機構を、異様に求めている、というか好みすぎ怖れすぎ、なところがある。言葉を足していくことで基本的には鈍重になっていくはず、と思っているのだけど、単独で軽量化の効果を発揮してくれる言葉とか、噛み合わせと響き合わせによって軽量感を醸し出してくれる言葉とか、が、あるようだ、と認識もしていて、使おうとしたがる癖もある。あるなあ。
▼▼言葉と単語と文章、というワードの「範囲調整」には、こだわりがち、というか、惹かれがちだ。
▼▼重荷にならないとよいのだけど、重荷に思って欲しいわけじゃない、という気持ちが伝われば──そう言っていれば、まあまあ程よく差し引きして受け止めてもらえる、んじゃないかなー、と思えるような感覚と経験は、ある。でもまあ、万が一は怖いし。それに、無意識に気にしちゃってる、は、誰も防げないだろうし。
▼▼思想の自由というほどではないけれど、思うことは自由だ、何を思ってもよい、とは思っている。とはいえ、この許容は、思いから行動が出てくることがありうることと、誰かの行動がじぶんに実害を与えるであろうこと、被害により人生が毀損されるのが怖くて嫌なこと、を除外して考えている。そういったことまですべて含めての「よし」ではない。多少は覚悟のうえであったとしても、全面的ではない。全面的だと思っていることがあったとしても実際に全面的であるかは微妙だ。という判断によって、こういう思考が発生しないよう、禁止するよう、減衰させるよう、行動する、ってなった時に、どう動くか、どう動く作法と流儀と、うまさや効率化があるか、っていうことは改めて考えてよいかな、って思った。
▼▼駄文失礼、と書かれるの好きじゃないな、と思っていた時期があることを思い出した。最近はあんまり見なくなった。慣れたり諦めたり許したりしたわけでもなく、好きになったわけでもなく、見なくなったので、気にならなくなった。好きな文章に「駄文です」って書かれると嫌だ、哀しい、というようなことではあった。今でも書かれたら思うだろう。駄文だなあと思いながら書いている人が減ったのか、駄文だと称する文化が縁遠くなったのか(まわりに書いている人が沢山いたらいくらか定型文的に書きたくなるところはある気がする)、まあでも、書かれなくなったのは嬉しい。駄文だ、と書いてしまうくらいの気分を背景に書かれた文章も、なかなか(あるいは、かなり)面白かった気はするけれど。駄文かどうかはこちらが決めるのに……(そちらがなんと言おうと、ぼくは好きなので!駄文じゃないので! だから駄文だとか思わないで!)なんて思っていたところはけっこう強めにあったのだけど、このあたりはあまり思わなくなったかな。当人が駄文と思うのも自由だ、と思うようにはなった。
▼▼繋がってるような繋がってないような発想の接続のまま書き連ねた。雑記だ。