世界は称賛に値する

日記を書きます

2023年10月5日(木)一般常識に反する発語と、立場に反する傲慢

言い訳

発した言葉が一般常識に反したものだと感じると、その言葉を表に出した理由を書きたくなる。しっかり説明してわかってもらいたくなる。言い訳を始める。たぶん、過去にそういった状況で問い詰められたり不思議に思われたことを根に持っているんだろう。ここまで言っておかないとダメかとひとりで勝手にツッコミを想像してぷりぷりしていることもある。もちろん書き上げたあとにシンプルに説明が足りてないぞと気づいて文章を足すこともあるわけだけど、このままだとなんか言われそうだからなあって感じで、面倒くさいなという表情と心持ちで、はいはいこういう前提が置いてあれば一般常識と違っていても見逃してくれるんでしょ、と思いながら書いていることもある。こんな演出と文脈の調整で納得させられるならそもそもそんな理由くらいそっちが勝手に見つけてくれと思うこともなくはない。一般常識と違うからそもそもなんなんだとも思うし。ツッコまない理由を読み手側が見つけてきてくれたってときにはよいじゃんと考える。なんちゅう傲慢な精神だ(特に「書き手」としてはそうだろう)とは感じる。

書いていてこうして今なんとなく出てきたが、"書き手として傲慢"ってなんなん、とも思った。当たり前みたいに書いているけどなんなんだこれと感じた。

立場による礼儀

書くなら書くにあたっての礼儀がある、届かせたいならそれなりの義務がある、読んでもらいたいならそうすべきやりかたがある、といった考えかたはもちろんあるだろう。その背後に"正しい手段"が想定されることもわかる。そしてその延長線上には、正しくない(効率的でない・効果的でない)手法を叱責してみせる精神だってあるんだろう。そこに、書き手としての傲慢だ、と言い張るだけの理屈が生まれることも、むろん想像できる。

けど、書く側・読む側・話す側・聞く側といった「立場」とその立場による「正しさ」を、そんな自明視してよいのかなとは思う。それぞれがそれぞれの「立場」のうえで活動しているだのだから、その「立場」にいることを自覚して、最大化されることに責任をもって、しっかりやりましょう、目的に即した手段を選ぶことを推奨していきましょう、そうじゃないものは排除していきましょう、というような、「立場」による"縛り"を、当たり前と見なしてよいんだろうか。そういう「立場」を振りかざした形で"振る舞いの正しさ"を祭り上げるのって、理解はできるけど、しかし、ズレも感じる。ぼくらは「立場」で生きてるわけじゃないよというか、ある「立場」の者である前に端的に生きるひとりの人間・生物だよというか。「立場」で正義を謳えるほど「立場」って絶対的なものなんだっけというか、そういった線引きも口にしてみたくなる。

立場とか関係ないパターン

というか逆に、「ぼくは"書く側"なので、その立場にしたがって、しっかりやります」なんて言葉じゃなくて、そもそも立場とか関係なしにしっかりやれよ、と言いたいような気持ちがあるもしれないな、とも思った。こういった解釈でものを見ているところもありそうではあった。「こういう立場だからこうします」「こういう職業だからこうします」じゃなく、「ぼくはこうしたほうがよいからこうします」、むしろ、「ぼくはこうします」、と言えるような、いうなれば"立場的世界観に染まってないスタンス"だって、持っていたほうがいいんじゃないの、という解釈だ。

一般常識に反した気がした

あなたも書き手なんだから、書き手ならこうしなよ、こういうやりかたが正しいだろ、わがまま言わずこうしろよ、傲慢だぞ、といったツッコミが、書いている途中で頭の中に響いてきたので、その言い訳のために書いたのが上記だ。「一般常識に反しているため言い訳を始めた」の実例だろう。

たとえば、ぼくが言葉足らずなことを書いて、しかも、言葉足らずだったことを読んだひとに指摘され、さらに開き直ろうとし始めて、読み手に、おまえそれでも書き手なのかよ、書き手なら書き手の責任があるだろ、サボってんじゃねえよ、って怒られそうになったときに、いやいやそんな「立場」的な世界観を勝手に採用しても怒られてもな~、ぼくは書き手であるまえにひとりの人間だし、あなただって実際はただの人間なんだから、そんな身勝手な「書き手のルール」なんてものを持ちだして、それが絶対の正義みたいに振りかざすのは、ズルいんじゃないの?正義をかかえてひとに文句言うのは気持ちよかろうねえ、とか言いだしそうな情景を、一般常識的な姿として思い描いた結果である。

なんの話だっけってなってきたが終わり。書くのはおもしろかった。