世界は称賛に値する

日記を書きます

朗読する三十日、水曜日

Audible

最近はAudibleをときどき活用している。書籍を朗読してくれるサービスだ。実際に試す前には、声で読み上げられた文章に集中できるものなのだろうか、という不安があった。聞き流してしまいぜんぜん頭に残らなそうだ、くらいの想像をしていた。でも、そうでもなかった。聞いてみたら意外なほど聞きやすかった。しっかり集中できた。まるで問題なしというのが現時点の結論だ。目で文字列を追っていくほうが記憶への「利き」がよさそう、という謎のイメージを持っていたのだけど、誤りだった。朗読の質が想定より高かったというのもあるかと思う。もっと、淡々と、上手くも下手でもなく、読まれるんじゃないか、と想像してしまっていた。より聞きやすい声と抑揚があった。

www.audible.co.jp

『三体』

Audibleで『三体』を聴き始めた。話題のSF小説だ(刊行されてから少し時間は経ってしまったとも思うけれど、まあでもまだ最近かな、くらいの認識である)。非常に面白い。あらためてびっくりしている。なんで放置していたんだということにもびっくりしている。前に書籍版を途中まで読んでいたのだけど、読む手が止まってしまっていて、しばらく放置していたのだった。途中で読むのをやめてしまっていた本をAudibleを使って聴き直す、ということは、最近ちょこちょこやったりしている。憶えているところと忘れているところが半々くらいの本だと、中断していた部分からそのまま読み返すのもあれだし(記憶に抜けが多すぎて楽しめなさそうって思ってしまうし)、だからって最初から読み直していくのもやや面倒だし(変に飽きて楽しめなさそうとか思ってしまうし)、気が進まないと判断してしまいがちなのだけど、Audibleで聴き直すのであれば、むしろちょうどよい塩梅になるという判断だ。異なるニュアンスに乗せて、また出逢い直せる。

三体

三体

Amazon

『ハロー・ワールド』藤井太洋

目では『ハロー・ワールド』を少し読んだ。SF小説。藤井太洋氏の短篇集だ。最近、遊び場として活用しているMastodonを扱った小説が収録されているよと喧伝されていて、興味を持った次第だ。Mastodon小説は『巨像の肩に乗って』という作品のようだったけど、そこまではまだ読めていなくて、今日読んだのは一番目の作品『ハロー・ワールド』であった。iPhoneの広告ブロッカーアプリから始まる物語。固有名詞が身近で親近感を持ちながら読んだ。こういうテイストってSFだと珍しいので、シンプルに楽しく読まされてしまうな。主役級3人の長篇も読みたいとか思ってしまう。主人公の決断もよかった。

老衰する二十九日、火曜日

コテンラジオ289回

『歴史を面白く学ぶコテンラジオ』の最新回(289回)を聴いた。「死と老い」がテーマだった。題名を聴いたときに想像したものより斬新な切り口で素敵だった。老いの先に死を見るという感覚がそもそも現代的だし人間的、というところから始まっていて楽しめた。「障害について」「社会福祉について」を加えて三部作にしていく流れのようなので、このあともとても楽しみにしている。

www.youtube.com

常識

死生観についてはしっかり言葉にしたことがない。コテンラジオの話を聞いて私見を書いてみようとも思ったのだけど、思考を始めてみたらまずは「常識的な見解」に触れざるを得なかった。死にたくない、後悔したくない、死ぬまでにやりたいこと、長生きの価値、早逝の意味や価値、家族、子孫、葬式、すべてが消滅する世界の終わり、死後の世界、記憶、作品、祈り、などなどの「見かけたことのある死後についての話」に対する感想から始まる形になった。なにかにまつわる思考ってやはりこの形にならざるを得ないんだろうか。常識(人類の共通意識)に触れるしかないんかなあと思った。それで育ってはきてるわけだし離れがたいのはしょうがないんだけど。そして別に、人に影響を受けたくないとかではないんだけど。でもこれって、あくまで「今どき」のものではあるじゃん、と思うのだった。せめて人類内における可動範囲くらいは視野を拡げておきたい。その一助が、歴史や異文化を学ぶことの中にあるのはわかる。

いつもの流れ、いつもの作法

常套句とか定型句がよくないとか毎日のように言っていても、例えば「今日はなんかつらいなー」「憂鬱だし気が重い」「イライラする……やってられない……」とかから文章を書き始めたら、「でもそういうのってよくないからね」っていう「型」に話を流し込んでしまうに違いない。性格的にそちらのほうにしか話を向けないであろう未来が想像できる。そういう誘惑に勝てないと思う。マイナスをプラスまで持っていく、せめて、ニュートラル程度には補整する、みたいなやりかたが(ぼくの中だと)デフォルトだ。せっかく言葉を使うならそれくらいはやったほうがいいんじゃない?と、ごくごく自然に思ってしまう。こういうのも常套句や定型句の一種でしょとは省みた。言葉って「こっちに持っていく」ためのものでしょという偏見だ。

改造する二十八日、月曜日

マストドン

Twitterまわりがゴタゴタしている。その影響を受けてMastodonという分散型SNSの盛り上がりが少しだけ再燃しつつある。登録し直して(前にも登録していたので、引っ越し処理をした)少し遊んでいる。楽しい感じだ。言うなればTwitterをやり直している気分。と言っても別に、現Twitterが嫌いだとかではない。ダメな現行のTwitterなんてぽいっと投げ棄ててやり直そうというような認識ではない。現Twitterに関する問題点とは関係なく、「Twitterに類似したSNSに新規登録して、フォローする相手を選び、素敵なタイムラインを構築する」ということがやりたかったんだと思う。Twitterで最初の頃にやっていた行為、とても楽しかったので、もう一度やりたいな~、と頭のどこかで思っていたのだと思う。Twitterで別アカウントを作れば再現できるじゃん、というツッコミもむろんあるけれど(たしかに)、ちょっと性質が異なるSNSでそれができるなら、新鮮味があってそれはそれでよい。そんなこんなでもう一度遊ばせてもらっている気分だ。ブログを再開したタイミングだったのもちょうどよい(この影響が最もおおきいかもしれない)。

さえずらない

Twitterで発される言葉はツイート(原義は小鳥のさえずり)と呼ばれていて、Mastodonだとトゥート(鳴る、鳴くといった意味。象の鳴き声もあらわす)だ。わりとよい言葉選びだと感じる。ツイートは140文字制限だけどトゥートは500文字制限。Mastodonだと長く書ける形だ。文章の適切な量、というのは曖昧だけど、ともあれ、形式が異なるのは面白い。そこにただよう空気が変わってくるのが素敵だ。セミクローズドも相まって、Twitterとは異なる文化が形成されそうな流れがあって、基本ワクワクしている。

紹介

「今日はあれが面白かったし、これも面白かった」「どれも紹介したいけど、まずはどこから書こうかな~」と脳内をうろうろさせているうちに、「いや、まず思いついたこの発想を忘れないように書いておくか」ってなって、結局、時間が足りなくなる。思いつきの書きつけだけで終わってしまうことになりがち。つまり、面白かったもののピックアップがぜんぜんできていないような状況があるのだけど、そんな中、「あれもこれも紹介したい」という方向性のことをすっかり忘れてしまった上で、「今日はなんの思いつきも湧いてこない……」ってなっていることがあるので、いやそういうときこそちゃんと「紹介」を書けばええやん、ってなった。

生存する二十七日、日曜日

気力は有利

無気力、無関心を、推奨しないものとする生きかたがまあ普通だろう。なにもしないことを突き詰めていくのは、自滅につながっていく道でもあるので、なおさらである(無気力、無関心が、イコール、なにもしないことにつながるかどうかは一考の余地があるけれど)。活力を――動くことを――つまり熱を、推奨する文章が、あまたあるなあと思う。実際に行動してみせること、あるいは、より頭を働かせること、を持ち上げていく文章だ。そして、それらを目立たせる意志と文化がその背景にある。生存に有利だからだろう(実際にそこで勧めている理由は「楽しいから」かもしれないが、これを楽しめることが生存に有利だった、という理屈だ)。生きて熱を発する、は不可逆なので(生命だと逆を選べないので)(だって死ぬので)、まあ、おおむねそちらに寄っていく。言葉もそれに引きずられるなと思った。

半分くらいの自由

というふうに言葉にすることで、逃れられる、ということでもないけれど、これによって多少は距離が取れる。客観視できるし、言葉遊びがてら飛躍してみせることなんかもできて、うまくやりくりした空気は出せる。気分的には半分くらいは自由になれるだろう。この半分くらいの自由が言葉の楽しみのひとつだ、とは言える(言いたいなら言ってみていいよくらいのことには出来る)。

質問する二十六日、日曜日

スマホ視野

スマートフォンの画面で文章を書こうとすると、視野が狭くなる。視野が狭くなるというか、コンピューター的に喩えるなら「作業メモリ」が減る感覚があった。書いているあいだに前提として認識しておける背景や文脈が、少なくなる。結果、流れに対する見逃しが多くなり、踏み外すことも増えて、論理の飛躍や破綻も増える。同じことを話している人を見かけて、だよね〜、と思ったこともある。ほかのひとも感じているならそういう変化があるんだろう、と乗っかった。画面のおおきさに起因する問題ではないかと考えていたのだけど、ただ、最近、あんまりそれを感じなくなってきた。なにかに慣れたのか、そうでもなくなってきた気がする。画面のおおきさに起因する問題というよりかは、(慣れなくて)画面のおおきさに気を取られて、釣られていただけなのかもしれない。いやでも、それまでに書いた文字列を(文脈を把握し直すために)すぐ見返せるかどうか、そしてどれくらいの量がすぐに目に入るか、っていうのが、関係しないわけもないのかなあ。電子書籍でフォントサイズをめちゃくちゃおおきくして画面上に10文字とかしか表示できないようにした読書(これはすぐ試せる)、あるいは、現状書いている一行だけしか表示されないエディタ(古いワープロがこんな雰囲気であった)、とかを想定してみたら、文章への感覚がかなり変わるのは想像できる。感覚は変わるけど(変わるのはそりゃ変わるでしょ)、だからって「文章が書きづらい」とはイコールではない、というところかなあ。

スマートフォンで執筆活動するのって違和感ありすぎて、無理、くらいのことを思っていた時期があったわけだけど、この小説はぜんぶスマホで書きました、というようなエピソードも見かけるようになって、無理なんてことはないのだなと反省させられることになった。最初に聞いたのが藤井太洋氏のデビュー作(『Gene Mapper』)だったのを覚えている。その後、山下澄人氏の『しんせかい』もスマホで書かれたと聞いた。ほかにもちょこちょこ見かけている。

togetter.com

わざわざなぜ

ブログって変な趣味だという気持ちがある。読書好きの人に、釣り好きの人に、登山好きの人に、なぜそれをするんだい?とはあまり思わないのだけど、ブログを書いている人に、なんでブログを書くんでしょうか?と思う瞬間はある。自分に対して、なぜ自分はブログ的なものを書くんだろう、と自問自答することもなくはない(自分に対する疑問だけ「ブログ的」という言葉を使ったのは、自分のやっているものが「ブログ」だとは思ってないせい)(ブログに近いもの――今の時代だとブログという枠組みに入ってしまうもの、くらいの認識)。その問いが「”変”だという認識」から発生している。ブログの文章を読ませていただいているときに、その文章に対して「意味を問う」目線が発生しがちなので、これって面白い現象だ、と思っているのだった。文章の背景にこんなふうな「問い」が見えている空間ってあんまりない。目を向けようと発想することがあんまりない。一般的な読書中にもそれくらいできたほうがよいのでは、とか、それくらい普段からやってていいでしょ(やってるよ)、とか、そういうツッコミもぜんぜんありうるけれど……。まあでも、自分はできてない。ブログくらいの変さがないと、出てこない目線なのだ。媒体としての新しさ、そして慣れなさ、および、生活や個人との距離の近さが、そんな「問いの視線」を呼び起こしてくれているのだと想像している。新しいと感じているものに対しては「わざわざそれをする理由」への「問い」を発生させやすい(よくわかんないものだから)、というのはあるんだろう。傾向や習性としてよいものかはあやしい。そして、インターネットでブログを書かなくなっていたあいだ、このあたりの問いの視線のことはすっかり忘れていた。

結果うそになる

筆が乗るのと筆が滑るのは紙一重だ。というか場合によってはほぼ同じだろう。歯止めが利かなくなる。誇張という名目で嘘も混ぜ始める。みたいなことを、常套句に対しても思っている。文章を書くときに(無分別に)常套句を使うのはよくない、と言われる理由がこれだろう、という認識があるのだった。常套句がカバーしてくれる範囲、定型すぎて、実際にはない空間まで、あるものとして覆ってくれてしまう。空白部分まで含んで言えてしまう(言われてしまう)。言葉が嘘になる(ことがある)。

対抗する二十五日、金曜日

常套句禁止

常套句が思考停止を誘うので、排除したほうがよいよ、という指南はいつも頭の中にある。思考の手癖で型通りの言葉を吐き出すだけの脊髄反射的な処理に「思考」は無い(のでダメだ)、という警句だ。自動的に出てくる浅慮なんて聞いてる暇はないとする価値観の話だ。初めて聞いてから腑に落ちるまではそこそこの時間を要したのだけど、今はすっかり馴染んでいる。確かに無価値だと思うタイプの認識に落ち着いた。とはいえ、常套句がほんとうにそのひとにとって常套句かは、曖昧だろう。気をつける必要はある。車輪の再発明みたいな形にはなるかもしれないけれど、真剣に考え抜いて「常套句と同じところ」に辿り着いた可能性はある。聞きかじっただけの言葉をかっこつけて吐き出してるだけでしょ、と軽んじた対象が、極めて丁寧な深謀遠慮を通して辿り着いた境地である可能性はある。そして、緻密な思索によって支えられた「常套句と同じように見えるもの」には、常套句とは異なる価値がありうる。

思慮深さの勝ち

浅はかさと思慮深さを比べたら、ほぼ間違いなく思慮深さを勝たせてしまうな。思慮深いことをよしとしたがる趣味であり美意識であり癖がある。まあでもケースバイケースではあるが。絶対なんてものはない。疑問の余地はいつだってある。そういう問いを向けたがるのもまた癖ではある。浅はかさが勝つ場面かー。なかなか難しいけど、あってもよい(結果オーライで勝たせるのはあんまり意味なさそうなので、丁寧に「場」を設定したい)

浅慮と遠慮

「浅慮」の対義語って「遠慮」なのか? 昨今のイメージで捉えるとそのままの対立関係にはなってなさそうだから、時間の経過によって意味が変形していったパターンか?(遠慮は「遠慮する」的な控えめなイメージがあり、「浅慮」の正反対ではなさそう)と思いついたのだけど、調べてみたら結局、「浅慮」の対義語は「深慮」であった。ええ~、深謀遠慮って言葉あるのに~、ってなった。深謀遠慮の「遠慮」は「深慮」っぽい意味合いを持ってそうじゃん~、ってなった。余談だけど「深謀遠慮」は類似品に「遠謀深慮」「深慮遠謀」の言い回しもあって、使い分けられん!と結論した(意味も同じっぽいので使い分ける意味もなさそうだが)。ちなみに「深謀遠慮」対義語は「軽率短慮」であった。なるほど。軽い浅い深い遠いの切り分けかた、わからん。

日記

好きな日記は日常描写の中に思索が混じってくるやつだ。普段の動きを描きながら、そこで発生した考えごとが混じってくるやつが好きである。書くときの気持ちで言うと、ちょっとだけ書くのがたいへんなので、思索優先の日記に流れがちではある。生活の描写って難しい。言葉にするときに何にフォーカスすればよいか悩む。目の前のボールペン、Nintendo Switchのコントローラ、カレーライス、収納ケース、パソコンの不調、エディタの選定、ブラックフライデーセール。どこをどう切り取って言葉にしたほうが最適なのか悩む。最適という観点で見ようとすることがそもそもよくないよとも思う。日記に「正解」を求めることを批難する(再考させる)スタンスだ。日記に正解はない――生活に正解がないように。とは思うし、思うのは気持ちよい。妥当だし、妥当さの快楽がある。でもまあそういうのって(答えはないよね~みたいな突き詰めた判断って)変に安住してしまうので微妙だ。微妙だけど、安住はよい、とも思う(安住ばっかりになって停止するのは困る。ただ、安住がない状況よりはよい)。