世界は称賛に値する

日記を書きます

生存する二十七日、日曜日

気力は有利

無気力、無関心を、推奨しないものとする生きかたがまあ普通だろう。なにもしないことを突き詰めていくのは、自滅につながっていく道でもあるので、なおさらである(無気力、無関心が、イコール、なにもしないことにつながるかどうかは一考の余地があるけれど)。活力を――動くことを――つまり熱を、推奨する文章が、あまたあるなあと思う。実際に行動してみせること、あるいは、より頭を働かせること、を持ち上げていく文章だ。そして、それらを目立たせる意志と文化がその背景にある。生存に有利だからだろう(実際にそこで勧めている理由は「楽しいから」かもしれないが、これを楽しめることが生存に有利だった、という理屈だ)。生きて熱を発する、は不可逆なので(生命だと逆を選べないので)(だって死ぬので)、まあ、おおむねそちらに寄っていく。言葉もそれに引きずられるなと思った。

半分くらいの自由

というふうに言葉にすることで、逃れられる、ということでもないけれど、これによって多少は距離が取れる。客観視できるし、言葉遊びがてら飛躍してみせることなんかもできて、うまくやりくりした空気は出せる。気分的には半分くらいは自由になれるだろう。この半分くらいの自由が言葉の楽しみのひとつだ、とは言える(言いたいなら言ってみていいよくらいのことには出来る)。