世界は称賛に値する

日記を書きます

反転する二十四日、木曜日

明晰な自己認識

自己認識における明晰さこそが肝心だ。そう言えるタイプの世界観が根付いている。気づいていない自分の行動や気持ちに「気づく」たびに快感を覚える習性があるせいだとは思う。その余波で、気づきたい!とすぐ思う癖も出来ている。そして、このあたりの気持ちを反転させて、自分の目を曇らせかねない精神の動きや言葉の動きはがんがん排除しましょう〜!と言いたがる姿勢を打ち立てていたりもする。自分に対する誤魔化しがありうる言葉を(その可能性だけでも)見かけるたびに、いらないやつ!と言ってしまいがちだ。

文章リズムの味変

日記の文章リズムにバリエーションが欲しいと思った。倒置法とか体言止めを使う手がまずありそう、という想像が初手であった。あとは、過度に文語っぽくしたり口語っぽくしたりするのも攻め手の一つだろう。ここで使った「~たり、~たり」というような文章ごとの接続方法を活用するのも一案か。つまりは一文の長さの調節だ。一文一文を短くまとめる。あるいは逆に、接続詞を駆使して長広舌を振るったりする。古風な文体やべらんめえ調、方言などを使ってキャラクター性で味変するのも一手かなあ。尊大さや卑屈さ、自慢話や恨み節、ジョークやユーモアの交えかた、などでも変わってきそう。それで言うなら、蒙を啓こうとする気持ちの上下とかでも変わるか……。教師側と生徒側じゃ話の流れはぜんぜん変わるというような……。シンプルに言い回しだけを取り上げるなら、まあ、うん、いや、そう、……、といった「間」の要素も連動するんじゃなかろうか。というか、この「間」こそがこの問題の本流なんじゃないの、とすら思った。だろう、らしい、ようだ、なのでは、に違いない、かもしれない、といった憶測、推定的な要素の混在させかたでもかなり変わる。連想事項を持ち込めるし。逆に、断言や誇張でも同様。あと連想事項の持ち込みでいうと、否定文の織り交ぜかたもそうであろう(~ない、~ではない)。仮定(もし)、逆説(だが)、並立させて比較(~と~)、抽象化の割合や方向性でもいろいろ変わってくる。普通に動詞の現在形、過去形、進行形、完了形の混ぜかたでも調整できそう。受動態も。いっぱい変わるところあるやんとなった。意味の流れで言うと、ボトムアップ(前提から積み上げる)、トップダウン(結論から逆算で説明する)、事例、エピソードトークや会話文の混ぜかたでも変わりそう。ミドルアップダウンという考えかたもあるのだけど言葉の流れとしてはうまく考えつけなかった。とりあえずいろいろ列挙した(こういう列挙のしかたでも変わるか)。句読点のリズムの話はしないんだ、と最後に気づいた。と思うを付けるか付けないかの話もあったな。

執筆速度アップ

昔より少しだけ執筆速度が上がっている感覚を持った。見栄えあたりに脳のリソースを割かなくなったからかなと想像する。言葉や文章の「見栄え」側を気にするのは今でも好きなのだけど……。好きな文字、好きな漢字、好きな言い回し、好きな改行位置、好きな句読点、などは無数にあるので、ここの好みを反映させたい欲は今もある。が、なんとなく気分で忌避していただけということにも気づいていて、なので最近は、避けないよう意識し始めた。偶然できただけの趣味に過ぎない粗雑な枠組みに、なんの検証もなく、ただ流されているのもどうなの、と思った次第だ。というか、その「この文字あんまり好きじゃないから使いません~」「この文字が好きなので足しちゃうよ~」という判断、浅はか感がすごいぞ、ってツッコめるようになった(明らかに「意味に合わせて過不足なく言葉を選ぶ」ほうが大事やん……、ってツッコめるようになった。たいして根拠ないし……)。

紹介する二十三日、水曜日

一個一個紹介

電車の中でぱらぱらと読んだ本、更新されたWEBまんがの一話、ふむふむと読んだはてなブックマーク経由の記事、接触したコンテンツなんて毎日無数にあるので、それらを一個一個紹介していくだけで日記なんて無限に埋まる、とは思った(「埋まる」って単語、価値を軽んじているような無礼さが出かねない、とも思った)(ネットで拾った画像、とかに通ずるやつだ)(日記なんての「なんて」もあやしい)(「無限」はありがちな誇張と見なされツッコまれにくそうだ)

世にあるまんが

世にあるまんがの量は目立って増えた印象である。表現媒体としてよい面が多いのだろう、という印象で見ている。出会いも多くなった。読まない日はない。

今日を紹介

紹介文ならわりと筆が乗る。題材としても面白いし、興が乗りそうだし、連想も繋がりやすそう。日記も「今日を紹介するもの」と見なせるのではないか、と思った。今日を紹介する行為って愉快だ、という気持ちは持ちやすい気がする。

みんなのお題

はてなブログに「みんなのお題(β版)」という機能がある。最近気づいた。誰かがお題を決めて、それに乗っかることができる機能だ。お題に乗っかって書かれた日記を一覧表示して閲覧することもできる。お題の内容はユーザーが作成したものの中からよさそうなものが選別されているようだ。選別されているおかげか、まあまあ楽しそうなお題だなあ、と思えるものが多かった。新たなブログとの出会いもあって、これは楽しい、とも思ったけれど、比較的気軽なお題が多くて、熟思、熟考、熟慮の匂いがする言葉のほうが好きではあるので、物足りなさもある、とも思った。まあこの手のは物足りなさがデフォルトなところもあるけれど(ぜんぶが当たりじゃないのは当然なので)。そしてそういうところで宝探しするのがわりと楽しいという話はある(まあ時間はかかる)(ので最終的には飽きがち) blog.hatena.ne.jp

電子書籍、好きになった

昨年くらいに転職した。通勤時間が増した。結果として、読書時間が増えた。最初は大変だと思いながら歩いていたのだけど(特に徒歩の時間が増えたので)、流石に慣れてきて、結果的にはよい状態になったと思っている。運動不足もいくらか解消できている。Kindleを初めとする電子書籍には、だいぶ慣れてきた。紙媒体と比べたときに、物体としての存在感、手触りのよしあし、実際の手の動き、おおきさの程良さ、読んでいる位置の把握しやすさ、ぺらぺらめくれる検索性、などから、紙の書籍のほうが明らかによい印象ですな……、とかずっと思えてしかたがなかったのだけれど、その差が減ってきた感覚がある。どっちにもいいところがあるとは思いつつも、トータルだと紙のほうに軍配が上がるかな、って思っていたが、それも思わなくなってきた傾向だ。特に違和も覚えず、なにも思わなくなってきた。電子書籍はあんまり好きになれないところがあるなー、と思っていた時代、とはいえ結局は慣れの問題だろう、紙ばかりよいものだと思える現状の感覚はおそらく変なので慣れてくるとまた変わってくるに違いない、とは考えていて、できれば電子書籍のメリットも自然体で享受できる認識や文化が欲しいぜ、と羨んでいたのだけど(電子書籍ネイティブ世代の感性も持てるのならば、読書がより楽しいものになるだろう、と想像していた)、ようやくそのあたりに近づけたのではないか、と感じている。少なくとも違和はなく、没入しやすくはなった。

支配する二十二日、火曜日

同じ地平を軸線とする

起床時刻や食事、天気などを、日記に書きつけることに対し、たいした話題でもないため(ここの判断もどうなのかだが)文章としてつまらないものになっちゃうんじゃないか、と考えていたことがあった。最近は、毎日の記録として「確実なもの」を書きつけておくことに、意味がありそう、と思い始めた。下地や基礎になってくれる印象、と言える。ころころ内容が変わり続ける日記は、読み取るための取っ掛かりがない感じになって、文脈、を読解しづらくなる。それに対するストッパーになってくれるイメージだ。引っかかって、そこから思考を始められる。むろん、起きる時間や食べたものが「文脈」になってくれるとも限らないが(ならないこともぜんぜん想像できるのだけど)、でも、重みづけにはなってくれそう。文脈を読み取るための支点だ。

説明(SF小説)

季節や天気を記述するとおおむね「描写」になる。ぼくの日記には描写がぜんぜんないが(別に意識的にそうしているわけではないのが)、描写を書いたほうがいいんだろう、とは思羽琴が多い。ので、そういう意味でも季節や天気を書いたほうがいいのかなー(そうすれば自動的に描写が増えてくれるなー)、って考えることはある。雰囲気造りというか、空気感の醸成というか、印象操作というか、そういう効能があるだろう、と思っていて、そういうふうに創り出した「雰囲気」こそが最終的には記憶に「利いて」くる、と想像している。雰囲気造りがよいと記憶に残るものになるよね、っていう仮説を持っているのだ。ただでも、ぼくは説明が好きすぎるんだよな。手癖で書いているとどうしてもそちらに寄せていってしまう。SF小説がとても好きなのだけど、今日SF小説を読んでいたときに、これって「説明が多い小説」として好きなんじゃないか?って思ったりした。

下世話や愚かがにじみ出る

下世話さも愚かさも書いていくうちに前面にしみ出してくる瞬間がある。下世話や愚かの定義が曖昧だぞ、とは思った。下世話や愚かが「よくない」ものかどうかの話もまた議論の余地がありありだろ、とも思った。とはいえ、隠したがる癖はある。普段の行動原理だけ見れば、あ、こういうのよくないやつなので隠さねば、って考えているのは確かだ。経験的に「よくない」と思っている人格面に「下世話」「愚か」とラベリングしている、という言いかたも(順序の調整も)可能ではある。

もったいないので体裁を取り繕う

文章で「なぜなら」や「だから」を書いていくうちに、つまり、じぶんの中の理由や根拠を突き詰めていくにしたがって、あ、これ、無根拠に空疎なイメージだけで馬鹿にしてるやつじゃん、人様には見せられない間抜けな姿だ、って気づける瞬間がある。うわ、やべ、こんな思考が出てくんのか、って、じぶんでも引いてしまったりもする。こういうときに思っているのが「下世話」で「愚か」というラベルかなーと思った。流石に披露したくない、と思って、たいていは取り下げる。でも、ぜんぜん書けてないわけじゃないし、ぜんぶ却下するのももったいないか、なんて思ってしまって、体裁を取り繕い始めたりもたまにする。が、取り繕ってもわりとろくなものにならない印象だ。

きらきらで誤魔化す

文章を書いているさなか、下世話さや愚かさが露呈しそうだと予感したときに、誤魔化そう誤魔化そうとして「迂回」し始めることがあるのだった。ド直球で書いたらバレるので、変化球的に、きらきらしたような見栄えのよい言葉をちりばめることで性質を分散させ、見えづらくさせてしまおうと(見えづらくさせてしまえばなんとかなるだろ、という安直さで)画策し始めることがある。そういう気持ちで書いた文章を読み返していて、何を言いたいのかわからん……!ってなったので、反省した次第だ。結果として、むしろ下世話さや愚かさにフォーカスしてしまうか、とも思った(それも誤魔化しの一つではある)。やはり誤魔化した文章は読みづらくなるものだ、とも思った。

まあでもバレる

誤魔化そう、嘘をつこう、という気持ちの中で書いた文章は、思った以上に「排除しきれない妙なねじれ」を発生させる、と認識している。そういう経験がここ数年で多少積み重なった。なんとかするスキル持ちもこの世にはいる、とは思っているのだけど(極めて真っすぐ誤魔化していてバレない人も見たことはある)、個人としては、想像以上に見抜かれた経験がある。そのことを思い出した。下世話も愚かも思ったほどは隠せない。黙っておくという手は一案だが(それはそれでそこそこやっているが)

流転する二十一日、月曜日

素晴らしいものなので

「これ」は素晴らしいものなのだからそれに対して「嫌い」とか「つらい」とか思っちゃダメなんだ、という判断をときたま見かける。思っちゃダメだ、という認識がそもそも嫌いなので、なんにせよ避けたい思考経路ではあるのだけど、対象が素晴らしいものだから(素晴らしいものに素晴らしくない気持ちを向ける、という状態にしてしまうなんて)絶対にダメである、という思考経路は、輪をかけて嫌いだ。幸せにならなそうなので苦手である(幸せが好きだ)。なんでも思ってよいし、なにに対してどう思ってもよい。調整とか制御とかがしたいならその次のレイヤーですればよい。その次のレイヤーでコントロールせんとする姿勢が、幸せに近づくやりかたの一つだろう、って思っている。

執筆たのしい

文章を書く行為がたいへん楽しい。数日前にも同じこと書いたでしょ、とは思いつつも、楽しい~っていう認識の登場頻度が上がっているので改めて書いた。何回書いてもよいとする。遠慮はいらんとこだろう。せっかくノってるのにわざわざブレーキかけることはない。なんでもいいから好き勝手にお題を決めて言葉を書きたい、と言える愉しさが今はある。お題の切れ味から出てくる面白さも無論知っているので、つまんないお題じゃつまんないんじゃないの、という不安も抱くところではあるのだけど、とはいえ面白さなんて二の次、と思えるくらいの快楽に溺れている。楽しいね。

ブログたのしい

ブログ書くとほんとうにブログ読むのが楽しくなる。なんなん……(この、じぶんでも実践してみたら、そこにある凄味が認識可能になって、愉悦が増幅される、っていう状態、あんまり好きじゃないところもあるのだった。実践してないことがどれだけあって、だからつまり、どんだけ見逃してるんだ、っていう無念が湧いてくるので)

いいねされた数だけ

つながりたい系タグを意識せぬまま軽んじている、と再認識した話を前に書いたけれど、「いいねされた数だけ(リツイートされた数だけ)××する」に対しても、同様の侮りがある。でも、よいところもある。活かしかたもある。雑に軽んじて見所を見逃している場合じゃないぞとは思い直した。なんか毛嫌いしてしまうことはあるけど、なんとなく毛嫌い程度の雑な判断を使ってやりくりしていけるほど世界は甘くないんじゃないの、と最近は思うようにはなったのだった(世界に対する甘えだろう、と書いていて思った)(固定観念ってけっこうな割合、甘えだよなあ)(甘えの良し悪しの話もあるけれど)

計算する二十日、日曜日

文学フリマ

文学フリマ東京35の開催日。興味はずっとありつつも行ったことがない。近くを訪れてみたもののビビって帰ってきた経験はある。東京開催は半年ごとのようだ。開催時期もこれまで認識できていなかった。まわりが騒がしくなるのを多少羨ましく眺めていただけだ。同人誌を作ってみたいという欲は前からあるので、実行してみたほうがいいんじゃないか、とは思った。実行のことを最近は考えている。

bunfree.net

テーマ

実行、努力、未知、修学、あたりが昨今のテーマかなあ。なんだかんだ避けて生きられるんじゃないか、と楽天的に見ていたところがあった。厳しそうという結論が出そう(まだ途中経過ではあるけれど)。このへん避けていたらつまんないほうつまんないほうにどうしても向かっていってしまうんだな、と経験則的に感じるようになってきた、が適切かな。判断が遅いが、遅いからどうだということでもない(気づいたときに、せっかく気づけたことを無駄にしないで、なんとかする)(ことができたら、まあよいか、と思う)。

同じ文字数

毎日決めた文字数だけ確実に書き続けている村上春樹氏のエピソードをまた見かけた。森博嗣氏も似たようなやりかたの話を書いていた。決められたことを決められただけ淡々とこなすタイプの世界観。多くもなく少なくもなく、油断も慢心もせずに、動く。できるできないではなくやれることからやる。結果における物理的な量にまずは軸足を置く。数が達成できなそうなら基準を下げてまず数を達成させる。この手のやつも、わかりきってるといえばわかりきっていることではあるのだけど、こうして言い回しをいくつか考えて、粛々と眺めていると、気分が変わる。気分を変えるために日記を書いている。

アドベントカレンダー

特定のテーマのもと、みんなで文章を書く、という流れがたいへん好きだ。最近はアドベントカレンダーという名目で12月にその種のイベントが開催されていて、多種多様なテーマのもとでの文章が読める。ボドゲ系アドベントカレンダーもいくつかある。嬉しい気持ちで読んでいる。アドベントカレンダーの管理サイトであるアドベンターの存在にはとても感謝している(そしていつの間にかアドベントカレンダー文化の軸になっていて凄い)。ボードゲームはしっかり趣味になったな。遊びを重視したいとと感じている自分の精神にとても適合した。重量級のゲーム(数時間かかるようなゲーム)も時間を忘れるほど楽しい。

adventar.org

落下する十九日、土曜日

繋がりたいタグ

つながりたい系ハッシュタグ(××な人とつながりたい)に対する侮りがひどい、と再認識した。ださいとかせこいとか思って避けているところがある。つながりたい系タグで得られるであろう(と想定されているであろう)つながりの「浅はかさ」を軽侮している、と言えるとは思うのだけど、この「浅はかさ」に対して、それはほんとうに浅はかなのだろうか、とは問いたくなるし、浅はかな場合も浅はかじゃない場合もあるんじゃないですかね~、とも思う。あとは当然、振る舞いや運にもよるだろう、とも思う。最初は浅はかなつながりであったとしても、どう振る舞っていくかで、浅はかじゃないものに出来ることだってあるし、運にも左右されるに違いない。というのとは別に、そこにあるであろう「必死さ」に対しての軽侮も間違いなくあって、これってつまり「必死な姿を嘲笑う」姿勢であり、そういうのはいらんだろ、と反省した。

努力化

必死さに対する眼差しが雑だ。甘えがあるからだ、と最近また再認識し始めた。ぜんぜん必死さの重要性が理解できておらず、おかげで努力をしようという気持ちも発奮させられず、結局は甘えてしまい、そうして眼差しが雑になり、必死さを軽んじることとなる。というような無限ループを予感している。日記に描いておくとちょっとはマシだ(発言が無意識に作用してくれる可能性、ある程度は信じている)

前向きな落ち

解釈を進めていくことで、最終的に、文章が前向きな落ちで終わることがあるのだけど、無理矢理に自分を納得させている自己正当化バージョンと、冷静でフラットな気持ちで見てみたらむしろ素敵な地平だったバージョンがある。基本的には後者を推進しているつもりだが、その理路の違いを丁寧に提示できているかは、不安だ。書いている側の主観でいえば、前向きな落ちで終わらせた(自分で持っていった)か、前向きな落ちで終わってくれた(辿り着いた)か、という違いはあると思うのだけど……。その流れを描けているんだろうかと不安になる。終わらせたと終わってくれた、なんていう、わかりやすい言い回しの違いを描いてみせたものの、自分でもどちらかわからないことも多々あるし。描けてないこともありそう。

サしゅう

Twitterまわりが少し騒がしくて、終わりの可能性も話されているようだ。根拠と言えるほどのことはまだないように見えているのだけど、普通に見逃しているだけかもしれない。消えたら代替品は出てきてくれるだろう。Mastodonの話もまた見かけるようになってきた。Mastodonが普遍的なものになった文化や社会は少し面白そうなので、ちょっと楽しみにはしている。今ある縁が急に途切れるのは困るが……。しかし、好きだったのに消えていったはてなダイアリーやはてなブログがあれだけあったのに、今さら「縁が途切れる」ことに嘆くことができるんだろうか、とは思う。あと、Twitterの終焉の匂いに釣られてブログを再開したみたいなタイミングになって、あら、とは思っている。