コテンラジオ289回
『歴史を面白く学ぶコテンラジオ』の最新回(289回)を聴いた。「死と老い」がテーマだった。題名を聴いたときに想像したものより斬新な切り口で素敵だった。老いの先に死を見るという感覚がそもそも現代的だし人間的、というところから始まっていて楽しめた。「障害について」「社会福祉について」を加えて三部作にしていく流れのようなので、このあともとても楽しみにしている。
常識
死生観についてはしっかり言葉にしたことがない。コテンラジオの話を聞いて私見を書いてみようとも思ったのだけど、思考を始めてみたらまずは「常識的な見解」に触れざるを得なかった。死にたくない、後悔したくない、死ぬまでにやりたいこと、長生きの価値、早逝の意味や価値、家族、子孫、葬式、すべてが消滅する世界の終わり、死後の世界、記憶、作品、祈り、などなどの「見かけたことのある死後についての話」に対する感想から始まる形になった。なにかにまつわる思考ってやはりこの形にならざるを得ないんだろうか。常識(人類の共通意識)に触れるしかないんかなあと思った。それで育ってはきてるわけだし離れがたいのはしょうがないんだけど。そして別に、人に影響を受けたくないとかではないんだけど。でもこれって、あくまで「今どき」のものではあるじゃん、と思うのだった。せめて人類内における可動範囲くらいは視野を拡げておきたい。その一助が、歴史や異文化を学ぶことの中にあるのはわかる。
いつもの流れ、いつもの作法
常套句とか定型句がよくないとか毎日のように言っていても、例えば「今日はなんかつらいなー」「憂鬱だし気が重い」「イライラする……やってられない……」とかから文章を書き始めたら、「でもそういうのってよくないからね」っていう「型」に話を流し込んでしまうに違いない。性格的にそちらのほうにしか話を向けないであろう未来が想像できる。そういう誘惑に勝てないと思う。マイナスをプラスまで持っていく、せめて、ニュートラル程度には補整する、みたいなやりかたが(ぼくの中だと)デフォルトだ。せっかく言葉を使うならそれくらいはやったほうがいいんじゃない?と、ごくごく自然に思ってしまう。こういうのも常套句や定型句の一種でしょとは省みた。言葉って「こっちに持っていく」ためのものでしょという偏見だ。