世界は称賛に値する

日記を書きます

埋没する十八日、金曜日

HUNTER×HUNTER 37

HUNTER×HUNTERに異能バトルというラベルを貼り付けようとすると個人的には違和感が出て笑う。ともあれ、異能的な世界の物語に触れたときにまず思うのは「ほんとうにこんな社会が成立するのか」だ。ステータスが見える、スキルシステムがある、といった要素が出てきたときなんかにもかなり思う。こんなふうに彼らの歴史は発展するのか? こんなふうに自分たちと同じような社会を成立させるのか? という疑問符がぽこぽこ浮かんでくる。このあたりを比較的緻密に描こうとする物語傾向が、サイエンスフィクションの有り様の一つだろう。HUNTER×HUNTERがSF的かは置いておくにせよ、現状の暗黒大陸編(というかマフィアの流れ)は、念能力者がひしめき合う世界で政治的におおきな事件が起こったらどういったことになるか、という問いに向き合っている印象があって、たいへん楽しい。人数を増やしまくってくるのもよい。些細な描写だけでキャラクターを立たせてくる冨樫義博の筆力あってのものと言えたりもするかな。

深夜更新

なんとなく午前0時の更新になってしまうな。叙述活動が楽しくてちょこちょこと文章を書き足してしまうせいで、切りがなく、あ~あ、今日も終わってしまう、という気分を区切りにして日記をアップロードしている。

教室

講座とかカルチャースクールとか習い事に対して消極的な精神がまだある。素直に参加しようと動けていない。学びの場があることや教えを請うことの重要性、昔よりもわかるようにはなってきて、でも動けていない。日記を書き始めるとこういうじぶんの中のこじらせが気になってくる。甘えと侮りとかっこつけを目立たせる効果がある。よい(少なくとも自分にとってはとてもよい)。お説教と自戒の言葉として顕現させた次第。

シゴタノ

今日聴いていた『シゴタノ!キャスト』の中で、「聞き返すと、改善点をいやでも見つけてしまうので、最近は、するべきじゃない、と思うようにしていて、数秒たりともしないように心掛けている」という話があって、ほどほどに蒙が啓かれる思いだった。日記を見返しているとたしかに校正のように直したいところが無限に見つかる。改善したくなるし、直すのは楽しい。でも、それはほんとうに「改善」なのか?とは思える気はする。改善したくなることと、それがほんとうに改善であるかは、無関係なのではないか、という問いだ。そこには実は根拠がない、ということを前提にすべきではないか、という思想だ。面白かった。 open.spotify.com

成長する十七日、木曜日

一文字

いまのところ記述行為が妙に楽しくて、ここ数日はそれなりの文字数を吐き出せている。関連事項が次から次へと湧いて出てくる。とまでは言えないにせよ、なんとなく好調だ。見た目としても文字がいっぱい並んでいて充実感がある。でも、この充実感に慣れてしまうと、一行日記とかが許せなくなっていくんだよなー、っていうのも思った。同じくらいは書かないとならぬ、という強迫観念が脳を占め始める。経験的にはそうなりがちだ。あまりよくない思考だろう。一行だけしか思いつかないことだって当然あるし、別によい。とは思っておきたい(というか"一行"ってくくりそもそもなんやねん、とも思っておきたい。一行だろうが一文字だろうが一単語だろうが、所詮はこちらが勝手に決めた枠組みであって、一文字ぽんと置いてみせて、これが日記、と認識することの、何が悪いんだろうか。──という視座はあってもよい)

流れ

書くたびに、文章のリズム、論理のリズム、説明のリズムに対して、同じような流れを踏んでいる感触があって、手慣れたこの「型」を使ってしか文章を書けないんじゃないか、という怖れが湧いてきた。手持ちのリズムから離れにくくなってしまった。ですます調をあえて使うとかで多少の路線変更はできそうなのだけど……。好きな文章を真似するという行為をあまりしなくなったせいで、栄養が偏っているんじゃないか、とも思った。視野が狭まってはいそう。

いつもの流れ

理屈を見かけて、周辺の空間とともにそれを描いてみせてから、それについてまずはこう思いました、とはいえこうだろうとも思いました、っていう文章(の流れ)しか書いてないじゃん……、って気がしてきた。

金色のガッシュ2 第8話

読書記録。雷句誠『金色のガッシュ2 Page8』を読んだ。続編開始後、電子書籍で毎月一話ずつ刊行されている。続編が出ると聞いたときは多少の不安を抱き、第1話を読んだときは確かにおもしろいと思って、いまとなっては、毎月の楽しみの一つになっている。面白い物語をまた見せてくれてありがとうと思っている。登場人物が年齢を重ねたことが、面白さを損なってないとは思う。ただ逆に、面白さを増してもいない気もする(というか、異なる面白さに繋がる場合もあたのではないか? しかしそうでもない? とも思う)。少年たちのその後、おとなを描いたときに、何を描けるか、という問いはあってよい(別に描かないといけないわけではない)。

視聴する十六日、水曜日

ドンブラザーズ

戦隊も仮面ライダーも定期的に強く琴線に触れるやつが来る。調べてみると監督や脚本、音楽などが同じ人だったりするので、驚かされる。そこに明確な好みがあることにびっくりする。遠目で眺めていた時には違いを見て取れていなかったにもかかわらず、凝視してみたら明確な違いを感得できている、ということに驚く感じだ。幸せ寄りの気持ちをもたらしてくれるセンサーが、こんなところにも発動してくれるんだ、と思って嬉しくなる。いま放映中の戦隊、ドンブラザーズもその一つである。毎週の楽しみになっていて、続きを見るのが惜しいくらいの気持ちで見ている。このあたりはAmazonのプライムビデオで見られるのもおおきい(環境的に視聴しやすいので、見逃しを気にせず見ていられる)。

好みの戦隊

近年だとパトレンジャーVSルパンレンジャーがここに匹敵するくらい面白かった。あとはトッキュウジャーが心に残っている。ドンブラザーズ含め、いずれも、悲しい雰囲気がにじみ出ていて、とてもよかった。きらめくような明るさの中に差し込まれている鋭い陰が好きだ。そのコントラストを際立たせる音楽も大変よいものだった。こんなかなしい設定をよく考えるものだ、と思いながら見ていた。

物語レーダーチャート

素敵な物語に対して、評価してみよう、と思ったときに、どういった指針で評価したらいいのかな、とは考える。レーダーチャート(五角形か六角形くらいになるかと思われる)の、それぞれの頂点に何を置きたがっているんだろうか、と想像してみる。物語に対して自分が気にしているところ、つまり、自分の切り取りかたを、意識する。世界設定、社会設定、世界観(美意識・価値観・視座)、人物造形、人間関係、言葉選び、物語の展開、盛り上がり、落ち、あたりの要素をぱっと思いつくけれど、ひとつにまとめられるやつもあるだろう。設定関係は設定として一つにまとめてもよいし、人物造形と人間関係も一つにまとめることができそう(明らかに区別しているなら無論分けてもよい)。森博嗣氏が著書で付けていた衝撃、独創、洗練、感性、残留という五つの評価項目も素敵だった(『森博嗣のミステリィ工作室』)。とはいえ、物語を気ままに腑分けしてそれぞれに評点を付けるよりは妥当という気もする。勝手につながりを断ち切って見つめたところでそれは別物なんじゃないかという視点はある。

1巻の評価

評価したいとき、1巻の評価が難しい、という問題も考える。1巻の内容が助走的すぎて評価しづらいことがあるのだ(特に漫画だとそう)。1巻としての面白さ、つまり、助走としてちゃんとできているか、ってことを考えながら評価じみた思考を巡らせてみたりもするのだけれど、こういう評価ってあんまり意味なさそう、とも思ってしまう。それはそれとして(助走についての)技の巧みさを見ることには意味があるとも考えるのだけど。

無自覚我慢禁止

道徳的に、自意識的に、いやだ、つらい、むかつく、と言ってはなるまいという自己欺瞞的な心の動きが(しかも無意識の働きが)、この世にはあって、最も危うい動きだ、って思っている。経験則としている。素直が一番と言える。だから、この人の前であれば素直に表に出せると思えるタイプの人を(思えるような空気感を作れる人を)特に尊敬もしている。そういう人にわたしもなりたい、とも考えがちだ。

同じ話

とか、昨日も書いた話なのだけど。一回文章にしてみたあとに、あんまりうまく言えてなかった気がしてきて、また言うとしたらどういうふうに言おうかなー、って考えている時が、最も整理できるんじゃないか、って思っている。その再整理の言葉も書いてよいじゃん、という認識はある。むしろ書いて欲しいとも思う。もう一回頭の中を整理してみたので同じお題ではありますが少し切り口を変えてまた話しますね、っていうのは好きなのだ。再整理をしたときに別の断面が浮かび上がってくることがあるので、それを見るのが好きである。

別角

想像できていなかった角度からの光景を急に見せつけられる瞬間がとても好きだ。学問なんかはそれの宝庫なので本当に好きである。視野が狭いことを嘆く瞬間なんてのもあるけれど、そういう快楽が味わいやすくなるという側面もあるから、視野が狭いのも時には悪くない、と考えてみることもある。

推賞する十五日、火曜日

おすすめ

いつだってオススメしたいしオススメされたい。なので、推薦文がとても好きだ。できるだけいっぱい書かれて欲しい。誰にだって書いて欲しい。好きな相手ならなおさらだ(推薦文の推薦文)。ただ、人から薦められるとむしろ楽しみが減じる、って話はときどき聞かされる。自分で見つけだすこと仄暗い歓び(極めてプライベートな空間という意味で)こそが素敵だ、とも聞く。大変わかる。明らかに自分で見つけたときのほうが楽しみが増すし、実感もしているのだけど、それでもたいてい、そのことはすっかり忘れてしまって、オススメしたいしオススメされたい、とは思うのだった。

減じない

人に物事を薦められてもあまり面白さを減衰させないでいられる精神構造を、持っている、または、形成したのだ、とか過信しているところはある。期待か妄想かとも思うけれど、いずれにせよ特に困る場面がないのでなんでもよい。なんかありそうならまた対策を考える。

素直に認める

暴力の快楽とか支配の快楽、逆に、盲従の快楽とか諦念の快楽とかも、普段から認めておいたほうがよい、とは思っている。認めづらい寄りの気持ちも(なんで認めづらい寄りに区分けされるのかなとは思いつつも)折に触れて意識しておくとよさそうな印象がある。暗い気持ち、マイナスの感情、とか、まあなんであれ、心については、あっさりさっくり素直に認めておくのが好きだ。精神を誤魔化すとろくなことにならない経験則があるのだ。だいじょうぶ、って言葉は、好きな言葉のかなり上位に来るし、ぜんぜん余裕ーというほわほわしただいじょうぶさはほんとうに好きなのだけど、嫌な時に嫌だという自覚も持てないままだいじょうぶとか言ってしまっている状況は極めて苦手だ。不快に気づけない習慣性みたいなのが嫌いとも言える。

露見する十四日、月曜日

世界平和

世界平和が心の片隅にでも意識されているのが好きだ。真っ当に世界平和のことを見つめつつ話してくれる人を(どのくらいの規模と可能性を踏まえているかはともかく)尊敬する習性はかなり出来ている。こうすれば完成だなんて言えるわかりやすい世界平和はもちろんないだろうし、狭い範囲で小規模の個人的な世界平和くらいしか(もし達成可能だとしても)辿り着くことなんてできないにせよ、少しくらいは、目を向けておいてもらえると嬉しくなる。なんで世界平和が好きなんだろうか、結局は自分に都合がよいからというだけなのではないか、とは思えてきた。別にそれでもいいじゃん、という言葉の終わらせかたはあるけれど。でも、もっとよい落ちの付けかたもある気はする。もうちょっと恰好つけられそう。

自分周辺の露顕

せめて自分が言葉にしておかないと、現出しない、露顕しない、世界の一部があるなあ、って考えるのが好きだ。関連して自分史とか個人史という概念のことを意識するのも好きである。ここに楽しいものがありそうだ、って思ってしまうことが多い。独りよがりでつまらない文章、という概念もありうるので、このあたりの切り分けが難しい(というか切り分けできるんだろうか)という問題も同時に考えてはしまうのだけど……。自分にしか書けないことを誰にでもわかるように書く(と、素敵な言葉が書けますよ)という文章指南があって、この流れに、自分史や個人史を載せたい、と考えたりする。

HUNTER×HUNTER再開後3回目

週刊少年ジャンプを読んだ。HUNTER×HUNTERの連載再開後3回目のタイミングである。登場人物の一人にさらなる深みを与えるため、関係を持っているキャラクターを出そうかな、って考えた時、基本的には、友人キャラを出す、宿敵キャラを出す、くらいことをするものだと考えるのだけど(つまり、新キャラを一人出すくらいが普通かなと思うのだけど)、前触れもなく、複数人を出してきて、これはよい、と思った。これだけの人数を唐突にぱっと出してくる意味がある(意味のあると思える描きかたをしている)、と思えて驚いた。凄いね。

記録

仕事の悩み、仕事のわからなさ、仕事の愚痴、のようなものが最近はけっこう渦巻いているところがあり、日にもよるけど、それの整理のために日記を再開させたのだった。なのだが、そこに辿り着く前の着想メモだけで終わってしまっている。あと、出会ってよかったものをいくらかきちんと記録しておきたい、という欲もあった。日記サボってた期間の出会いが(それ以前と比べると)けっこう薄めになってしまっている雰囲気が出てきていて、対策したくなった。

睡眠する十三日、日曜日

日記における描写/説明

(昨日の日記の関連)日記に対しても描写/説明を対比させて考えることはある(というか、そこが気になるので、描写/説明を題目として掲げがち)。日記においての描写について考えていくうちに、心理描写と心理説明の違いにはときどき混乱している。時節や風景の描写、行動の描写、あたりの描写は、説明との違いを区別しやすいのだけど、心は、どこが動きで、どこが意味や関係なのか、区別しづらい。あと、たべものをうまく描写している日記が好きである。日記を書く時に食べ物にまるで目を向けられないのなんでなんだろう、って独りで考えている。

Splatoon3フェス

Splatoon3フェスの日だった。ポケモンとのコラボ回。所属陣営はほのおを選んだ。深夜に友人と遊んだ。午前2時過ぎくらいまで。ひさしぶりに人と遊んで堪能した。遊ぶの好きだな。ずっと変わらず遊ぶことが好きだ。いろいろサボって遊んでたいという怠惰の話だけではなくて(それもなくはない)、目を逸らさず真っ直ぐ向き合ってそれでも遊ぶことを忘れずにいたい、という意識もある。遊び感覚、ゲーム感覚、といったものを下地にしておきたい。

記述行為

文章書くの楽しい。再認識したというか、日常的な気持ちの中にこの感覚があるのって心地よいなというのを思い出した(あるいは再生成した)。