世界は称賛に値する

日記を書きます

嫌な日

▼▼つまらない解説と説明を聞きながらぼんやり苛立っていた日だった。嫌な日だったと言えそうだとは思う。なんてふうに「嫌」とか書くのは珍しいので、書こうかな、という気持ちにはなった。嫌な日、と今日を呼ぶのは珍しい。珍しい行為、って認識しながら文章にしていくのは、だいぶ楽しい。珍しさに眼と頭を向けるのは、なかなか楽しい。あとまあ、解説と説明の違いは微妙である。解説のほうが専門的かつ詳細な印象があり、そういう印象を持ちながらは書いた。苛立つような解説と説明を聞いた日だった。詳細で専門的な話と、そうでもない話を聞いた日だった。でもって、帰り際に職場に寄って手伝ってから帰ってきた。手伝いだけ楽しみや幸せがあったかな。嫌な日~とか書いてしまうのはあんまり好きじゃないかなあ。だから普段は書かない。実際に嫌な日であろうと実際には嫌な日じゃなくてもなんでもいいのだけれど、ともかく、嫌な日、という言葉はあんまり書かない。現状のように、珍しいって認識したことによる快楽が「書きたくないな」という認識を上回った瞬間だけ、まあよいか~、っていう許諾を出してくれたりするところはあるのだけれど、でもまあ、稀な話だ。嫌な日、って言葉を書くと、嫌、と思っていたことを勘違いや認識間違いだったと思わせるための手段を探し始めてしまう──嫌、という判断を思い直させるための算段を立て始めてしまう、ところがある。嫌な日、と書いたところで、ぜんぜん前向きじゃないから、ただ精神的に消耗するだけだから、まるで得るものがないから、いまいち次に繋がらないから、等々のことは思えるわけだけど、でもまあ突き詰めると、ただの癖であり、癖じゃん、って思ってしまう。いろいろ思いついている理由がぜんぜん駄目駄目じゃん、って思わされてしまう。それはそれとして、そういう癖が、そういうじぶんの癖が、わりと好きではある。日記なら、じぶんの癖を見て、見ながら、好き、って書けるなあ、とは思っている。書いてもよい環境だ、って見做せていたりする。人様に読ませて素敵かどうか、面白いかどうかは、無論、微妙だけど、けれど、日記、ならば、許諾を出せそうな印象、というか、固定観念は、持てるかと思う。抱けるかと思う。日記という概念を自由っぽいところに固定させているところはある、なあ。嫌な日、って書いた時に、認識をじぶんでも気づかないうちに撤回させたくなるような癖に関しては──嫌な日、って認識しないよう遊べないか試してしまうところに関しては、言葉にしないほうがよかったのでは、って気もした。前述した、前向きじゃないとか得るものがないとか、いう、理由が、ぜんぜん好きじゃないからだ。納得していない。嘘ばかり書いている気になる。嫌な日って書くのを避けがちなのは、単純に、嫌な日、という概念が好きじゃないからだ。という言いかたのほうがよいよな絶対、って思えてきた。