世界は称賛に値する

日記を書きます

2024年07月28日(日)比喩のレンズでその日を作り替える

一日にきれいな比喩を

日常生活の出来事やふるまいに、サラサラとした心地のよい比喩をあてているタイプの文章に、あこがれている。しんみりするような、あるいは、ほっとするような、なにがしかのイメージをレンズにして、ある日の事件や行動を見つめ直したい、といった欲がある。日記を書くことのメリットのひとつだ、とも考えている。

美しく、楽しく、新しく、清雅な彩りを通して、その日の出来事を振り返り、遡及的に、新たな認識を構築していく手法、と言えるかな。もちろん同じことが、邪悪で、冴えない、不当で薄汚れた情緒によっても、可能だ。嫌悪や忌避、不快感によって一日が(ときには世界が)塗り替えられることだって当然ありうる。そして、あってよい。あえてそうしてみるやりかただってあるだろう。別に真善美ばっかり賞賛したいわけでもない。マイナスなイメージに堕とされてしまったとしてもそれはそれだ。とにかく、なんか、そういう"再構築"の手つきがある、っていうことがつかめただけで、まずはよい。どっちに転ぶか(転ばせたいか)は、また別の話である。ケースバイケースでもあるし。

話が逸れた。ともかく、「●●のようにデスクの片づけをした」「●●みたいなトラブル処理をおこなった」「●●のようなやりとりだった」といった言い回しにおいて、フォーカスされるものがありふれた出来事であればあるほど、そして、それを喩える「●●」が、文脈からかけ離れた意外なものであればあるほど、素敵だ、と思わされているところはある。比喩ってこんなふうに活かすことができるんだ、って感激させられている。

けど、まあ、とはいえ比喩は苦手だ。というか、自然体だと頭や目が"喩える"のほうにぜんぜん向いてくれないぜ、っていう実感はある。比喩を習慣づけるトレーニングでも考えて試してみたらよいんじゃないの、とは思わなくもない。矯正すればなんとかなりそうという雰囲気はあるのだ。単に慣れていないだけじゃんとも思う。検討のための道のりにまったく見通しがついておらず、下手に動くと間抜けな振る舞いを見せてしまいそうだから、誤魔化すために避けているだけだ、ってところも間違いなくある。