複数案を義務づける
ぱっと思いついた直感的・直情的なアイデア単品で満足しちゃうのではなく(ひとつ出せたからいいでしょ、と甘んじるのではなく)、あと、いくらかはそれを精査・検証したからよいよね、ってところで終わらせてしまうんでもなく(現状、ここで終わらせていることが多そう)、せめて、毎回、「複数案」出すくらいのことは義務づけておいてもよいんだろう、と反省した。
「複数案、出そうとしていない」は、具体的、かつ、見えやすい自分の癖と欠点だった。ツッコミやすかった。改善するにも基準としてわかりやすいところだと感じた。
もっともらしいものを一品、提示できたら、なんとか切り抜けられるだろ、みたいな侮りが、けっこう根深いところに食いこんでいる。単品を精査・検証するくらいのことであれば、習慣づいてもいれば頑張ってもいて、効果も出ているとは思うのだけど、しかし、「複数案」を目の前に並べ、たがいに見比べながらチェックを進めていくのって、検査済み単品だけでなんやかんや考えているのとは、比較にならないくらい、見えてくるものが多かったりするよ、と、いまさらながら(我がことながら)お伝えしておきたくはあるのだった。
意味の手ごたえ
「こうなっていなければ意味がない。じゃないと、どうせ、行動だって変わらない」といった構造の文章を、前の日記で書いた。読み返していて、そうそう、行動が変わるところまで辿り着かなかったら意味がないケースって、たしかにあるよなあ、と思った。もしくは、遡及的に見て、行動が変わったことによって、「意味があった」ことにされるケース、というか。
むしろ、そこに「意味」というを見出せたときだけ、深い納得(インパクト)が得られて、結果として、行動なりなんなりが変わる境地にまでたどりつけるのかもしれない。ここも、逆転させて、遡及的な形で考えてみるなら、「深い納得が得られたときにだけ、意味があったと感じられる」と言えるのかもしれないが。
どこに力点・支点・作用点を見出すかで見えてくる構造が変わるんだとは思う。なんにせよ、「意味がある!」と感じられるかどうかの、分水嶺と、その分水嶺を超えられるか越えられないかによる価値の違いは、だいぶ大きそうだな、って思った。
意味がある的インパクトが、どのラインを越えてくれれば、生まれてくれて、「行動」まで変えてくれるのか、変わってくれるのか、その基準がなんとなくでも見えているのと見えていないのじゃ、生活やら人格やら解釈やらがまったく変わってきそうだ、とは感じた。
小説にできること
朝から子どもが熱っぽい様子だった。大事をとって早めに退勤した。ほんとうに熱が高いのかね君は?と疑わしくなるくらいには元気に振る舞ってくれていて、よかった。その後の経過も見るに、快復に向かうさなかではあったようだ。緊急時のためにその他のスケジュール調整もおこなった。
電車の乗り換えの隙間時間で、『小説にできること』(藤谷治/ちくまプリマー新書)を買った。軽い衝動買いかな。新刊棚で見かけた。文学の本は好きで、ほどほど読んでいると思うけれど、これは、文学というよりは「小説」にフォーカスした本で、切り口が新鮮だった。小説の書きかた、読みかた、ありかたについて、その自由さを、丁寧に洗い出してくれるような内容だった。