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日記を書きます

2024年07月18日(木)業務日報ってなんなのか

業務日報

仕事の報告のような文章を書こうとすると、たいてい、想定していたものからちょっとズレる。抽象的になるというか、哲学的になるというか、別にそこまで深掘りしたいわけでもないんだけどな、って言いたくなることが多い。こういう形状にしたかったわけじゃないんだけど、ってなる。しっかり考えなおそう、物事の根本を捉えなおしたい、といった振る舞いを好みすぎなのでは、とは思った。考えるにあたって、そういった側面を見たがる癖・欲は間違いなくある。

もっと、いわゆる「業務日報」として、単純、端的に、今日はこれをしました、こう感じました、こう考えました、ここが改善点だと思われるので、次はこうします、くらいのことが書ければよいのだけど、それが難しい。周辺の情報・景色・連想に向かって話が逸れがちだ。たぶん、根っこを掘り当てようとして、ルート探しに注力し始めてしまうんだと思う。

テーマ設定が曖昧なせいでは?とは、眺めていて思った。曖昧というか具体的じゃない。フォーカスすべき(フォーカスしたい)「業務」の、具体的な目的・具体的な行為に、目を向けられていない。あと、問いかけの向けかた、内容も、甘い気がした。どういう問いを携えて向き合うべきなのか、掘り出せていないし、定められていない。打開しようとするなら隙はこのあたりにありそうなのかな、って考えてみた。あくまでいったんの仮説だが。

手順書

業務日報を「手順書」じみた形で書き残す、といったやりかたがあるようだ。おこなった作業について、「今日は、この作業を、こういうやりかたで、これくらい、やりました」というふうに、記述する。想定量や作業量、かかった時間、などの「数値」まで、詳細に書き残しておく。後輩や後任がそれを読んだときに、それだけで、運用が可能になるくらいの「作業フロー」を、意識して残してみせる。日々の記録で「マニュアル」を作るような仕草である。そんなふうな文書化が、もしできるのなら、業務ごとの引継ぎなんてしなくてもよくなるかもしれないし、効率的だろう。「業務日報」としての出来栄えも、きっと、よりよいものになる。どうしたって具体的になるし、とも思った。

こういう「手順書」型の日報がおすすめだよ、といったアイデアを、以前に聞いたことがあったのを思い出した。

というか、具体的な時間・回数・段取り・運用、といったところをしっかり描けていない(描いたほうがよいという価値観を維持できていない)のが、やっぱり、よくないっぽいな~。根っこを追い求めるばかりの、前提追求型または形状追求型の、自分の"うろうろ文章"を眺めてながら、こっちばかりじゃどうしても片手落ちだよな~、って反省する気分にはなってきた。