世界は称賛に値する

日記を書きます

2024年06月08日(土)気持ちの整理、中毒性あるのだ

自己正当化等々

自分自身を認める(認めることのできる)気持ち(の余裕)のことを気に懸けてはいる。ときには「ありのまま」の自分だって率直に褒めてあげられる気持ち、というかな。たいした根拠がなくても――わずかな根拠であっても、自己正当化をはかれるくらいの気持ち、だ。そういった気持ちをどうにかして守り抜いておいたほうがよいよなあ、といった試行錯誤多めのここ数日である。

「自信」「自己愛」「自負心」「自尊心(自尊感情)」「自己肯定感」「自己効力感」。分類するための単語もいろいろあるようだけど、細かく見分けられてはいない。判別は難しい。たまに誤解もしているとは思う。ある瞬間に感じられる一時的な気持ちと、継続的に得られている根づいた気持ちの、二つには分けられるんだろうな、とは考えている。あと、過去現在未来のどこが軸になっているか、とか。

いずれにしても、このあたりが削られすぎるのは、おそらく致命的なので、なんとかしたほうがよいよね、というようなことを考えているのだった。数日前にも考えていたと思う。けっこう心配しているのだ。

たとえ、指導者から為された指摘や説明が、的確で有益なものだったとしても(はたから見たら、もっともだし、素直に聞いておけばいいんじゃない?と思われるようなものだったとしても)、もしそれによって、明らかに、そしてひどく「削られる」なら、撥ね除けてしまってよいんじゃないの、とは(あらためて自分に)言っておきたい。少なくとも、耳を貸さないくらいの選択肢は、用意しておきたい。妥当で素敵な理屈にだって、いくらでも毒や棘をひそませることはできる。言葉の選びかた、顔立ちや声音によって、いくらでも、攻撃的で破壊的な要素を持たせることができる。「妥当なこと言われてるから真っ当に聞いて受け止めないと……」なんて言って油断してると、やられるぞ、とは思った。そういう危険性に思い至るようになった最近である。

ほどほどの年齢になってきたことを気にしすぎたせいで、結果、成長や成果をあせりすぎてしまい、「糧」にしようとして、素直に受け止めすぎていた、っていうのも、おそらくなくはない。従順だった。思考停止でもあった(ので、そこは反省したい)。なんにせよ、そのせいで、発言者の人格面の毒を喰らいすぎてしまった、というかな。いやまあ、自己正当化のために都合よく状況を組み立て直しているところもあるとは思うけど、そこはしょうがない、っていう前提で見つめ直している次第ではある。